「先生、消していい?」
「ああ」

一瞬の間の後、とても静かに部屋が闇で満たされる。

さらさらとシルクの擦れる音が近づいてきて、ベッドのスプリングが僅かに沈み込む。
緒方が毛布を持ち上げるとするりと隣に体温が滑り込んできた。
けれどまだそこには距離がある。
それが気に喰わなくて、緒方は肘を使って上半身を起こすとの身体を自分の方に近付け、そのついでとばかりに顎を傾けた。

「駄目、先生!」

だがやわらかで甘い唇に到達する前に、冷たくて滑らかな布に進路を塞がれる。
シルクのパジャマに包まれた手のひらを己の口元から退かしながら、緒方は不服そうにを睨みつけた。

「……別にキスぐらいいいだろ」
「だって先生一回キスしたらもう止まらなくなるでしょ?」
「お前、俺をなんだと思ってんだ?」

例え暗闇でもの潤んだ瞳はよく映る。
無垢で悪気など欠片も存在しない目が緒方を見つめて云い放つ。


「えっち星人」


云い返す気力さえ萎えて緒方は無言で身を引くとに背を向けた。
そっぽを向いた緒方を追いかけて、が背後から機嫌を取るように色素の薄い髪を撫でてくる。

「だって仕方がないでしょ。なっちゃったんだもん」

生理だろうが何だろうがやろうと思えばヤれないことはない。

そう口にしようとして寸でのところで踏み止まる。
そんなことを云ったらえっち星人からケダモノ星人にめでたくクラスチェンジしかねない。

聞き分けの悪い子どもをあやしているみたいに髪を梳る感触はまだ続いている。
溜息を吐いて緒方は目を閉じた。

どうせ機嫌をとるならもっと別の方法にしてくれ。

またもや飲み込まれる言葉。
けれどきっとこの行為さえ緒方の真似なのだろう。
実際自分はの髪にことあるごとに触れるから。

これまで撫でることはあっても撫でられることなど皆無に等しかった。
妙なプライドさえ封じてしまえば意外と気持ちが良い。
しかしそれも行為者がだからだろう。
同じことを芦原がやったりしたなら秒殺だ。
だがしかし、それ以上にこのふぬけた自分の惨状をもしも芦原が目にしてしまったりしたら、それこそ問答無用に瞬殺決定だ。

が母親のような愛撫を与えながら、恋人の甘えた声音で呼びかける。

「ねえねえ、先生、この前の続きは?塔矢先生に碁を教えてもらいたいって、明子おばさまも私と同じで塔矢先生に憧れて碁をはじめられたってこと?」

いつもは生理になるとセックスどころか一緒に眠ることさえ嫌がるのに、今日に限ってどうして共寝したがったのかこの台詞で納得がいった。
どこかがっかりしながらも半分溶けかけた意識で殆ど条件反射に言葉を紡ぐ。

「全然違う。明子婦人が碁を望んだのは…」





「御祖父様は喜ばれましたか?」

ふと思いついて数分ぶりに行洋がそう口を開くと、明子は碁盤から視線を上げて、にっこりと微笑んだ。

「ええ。とても喜んでくれました。隠居してせっかく時間ができたのに、退屈していたようですから。私みたいなへたくそが相手でも、碁を打てるだけ嬉しいと云ってました」

その時のことを思い出したのか、明子はくすくすと笑った。

「そうですか。それは良かった」

愛想の破片もなく行洋は碁盤に目を戻す。
盤上の形勢は摩訶不思議だ。

だがそれも仕方ない。明子は定石など全くといっていいほど知らない。ちょっと碁を齧った人間なら確実にそこに置いてくる局面でも、明子の一手は思いもよらないところを目指す。

正直、明子に碁を教えてやってくれと時枝に云われた時は面食らった。
だがあの時即座に断ろうとして、先回りした時枝に継がれた言葉によって行洋はその機会を永遠に失った。

明子の祖父が碁を嗜んでいるのだが、周囲に打てる者が居なくて寂しい思いをしている。だから明子が碁を覚えて祖父の碁の相手になってあげたい。

じいさん思いの良い話じゃないか、そう思わないかい、行洋君。

そう笑顔で時枝に話を振られて、行洋に嫌だと云えるわけはなかった。

「行洋先生のおかげです。ありがとうございます」

そう云いつつ、明子が不慣れな指先でこつんと碁石を盤上に置く。

その手首から指先に至るまで、まるで雪のようにどこまでも白い。
いつのまにか日に焼けて、その上ほったらかしにしている自分の無骨な手と同じものとは思えない。

明子は鷹宮のお嬢様だった。
鷹宮という苗字はここら辺では、来生、久我山という苗字に次いで多い。要するに名家と呼ばれるような家柄であり、時枝によれば明子はその中でも本家筋といってよい家の一人娘という話だ。
現在は都内の女子高に通っているそうで、ここに来るときは大抵学校帰りなのか制服姿だった。

明子が要した十分の一にも満たない時間で盤上に一手を打つ。

「私は礼を云われるようなことは何もしてません。明子さんが御祖父様を思って碁を学ばれた、それだけです」
「ですから行洋先生のおかげなんです。だって、学ぶにしても教えてくれる人が居なくては学ぶことはできませんもの。だからこれでも私、行洋先生にはとても感謝してますのよ」

視界の端、見えてはいないのに明子が自分を見つめて微笑んでいる気配が伝わってくる。

明子は行洋のことを『行洋先生』と呼ぶ。
行洋も明子のことを『明子さん』と呼ぶ。

どうして『塔矢先生』と『鷹宮さん』ではないのか。

おそらく明子は時枝が行洋のことを『行洋君』と呼ぶ所為で『行洋先生』なのだ。
実はこれだって最初は『行洋先生』ではなく『行洋様』だったのだ。様は勘弁してくれと云ったら先生になったわけだが、これはなんとなく間違いないような気がする。

一方自分はどうなのだろう。

時枝は確かに明子を『明子ちゃん』と呼ぶ。
だがそれにつられてしまうのなんて自分らしくない気がする。
明子が女学生なのも悪い。大人なのか子どもなのか酷く中途半端で、どう対応するのが正しいのか迷う。
結局自分は明子を子供扱いしたくて、馴れ馴れしく下の名前で呼ぶのかもしれない。

「…………そういえば」

思考と現実、珍しくもその両方に息苦しさを感じて行洋は思いつくままに口を開く。

「いつも髪をそうしてますね。それはそうしなければいけない決まりなんですか?」

明子が笑いながら片方の三つ編に手を触れた。

「ええ、校則なんです、おさげにするのが。ですから学校の中にはおんなじ制服を着ておんなじ髪型をした女の子で溢れているんです。きっと行洋先生があそこに行ったらびっくりなさるんじゃないかしら。きっと私がどこに居るのかも解らないわ」

そんなことはない。
きっと自分はどれだけ同じような年恰好の女子に紛れていても明子を発見するだろう。

頑迷なまでの強さでそう思ったが行洋は黙っていた。
別に口にする必要はないと判じられたからだ。

「本当は後ろでひとつに纏めてしまえたら楽で良いんですけど、でもほどくと面白いんですよ、パーマをあてたみたいになるんです」

そう云って明子は自ら髪を解き始めた。
細い指先が動く度にまろやかなうねりが現れる。
耳の下まで全て解き放つと二、三度指をくぐらせる。
行洋はすることもなく、ただ黙ってその様を眺めていた。

「ほら。外国のお姫様みたいでしょう?」

明子の頬の右側だけがふわふわとした髪に彩られている。

「そうですね」

行洋は手を伸ばした。
肩口の髪を一房掬うと、そのまま手のひらを引き寄せる。
すると羽のように重みのない髪がはらはらと持ち主の元へと還っていく。


その様を目で追う。


最後の一束が指先を離れるて元通りの場所に収まってしまうと、行洋は眼下の縦横一九路ずつの枡目へと視軸を戻す。次は明子の番だった。

だがいつまでたっても明子が次の一手を打たない。
行洋は盤上に向けていた視線を上げた。
明子が目を丸くして石のように微動だにせず自分を見つめている。

その表情を目にして、行洋は漸く自分が今したことの意味を悟った。

狼狽えたわけではない、だが思わず逃げるように盤上に視線を堕とす。

「…失礼した」

いいえ、と明子は消え入りそうな声で返事をした。





「………先生、続きは?」

その声に緒方は目を覚ました。
瞬間的に眠りに堕ちていた。どこまで話していたか記憶を探ろうとして、だが緒方はその作業を途中で放棄した。つまり睡眠に対する欲求が勝ったのだ。
に背を向けていた身体を反転させ、目の前の身体に抱きつく。

「また今度だ」
「あっ!ちょちょっと先生、離れてよ、もう!」
「煩いな、これぐらいいいだろ。あったかくて丁度いいんだ」
「……先生私のことなんだと思ってるの?」


「最高にセクシャルなゆたんぽ」