「ねぇ……先生」

その声に緒方は閉ざしていた目蓋を押し開けた。
眼鏡もなく明かりもない視界はまるで水底から水面を見上げているようにぼやけている。

「どうした?」

言葉と共に裸の肩を抱いていた腕を伸ばし、その艶のある髪を撫でてやる。
もうとっくに眠っていると思っていた。
いつも終わったら電池が切れたみたいに動かなくなる。

寄り添っていた身体が身動ぎ、寝ぼけているのかは子どものように緒方の肩口に額を擦りつける。

「ねぇ、せんせい……塔矢先生と明子おばさまって、実は結構歳が離れてるよね?」

緒方はその問いに僅かに笑う。
何が云いたいのか想像がついた。

「まあな」
「どうやって出会ったの?」

想像通りの台詞。
その言葉によって昔話がひとつ呼び起こされる。
けれどそれを無視して、柔肌を手のひらで味わう。

「さあね。当人たちに尋ねればいいだろ?」
「意地悪」

滑らかな手触りの感触が手のひらから消え、変わりに緒方の胸の上にやわらかな重みがのしかかる。

「先生、ほんとは知ってるんでしょ?」

顎の辺りにひとつキスをして、それから暗闇の中の心を覗き込もうとの大きな瞳が緒方の視線を捉えた。
さらにもう一度、今度は唇にキスをして再びじっと緒方の目を見詰めてくる。
緒方は笑いながら自分の鎖骨の辺りに溜まっている黒髪を払った。

「賄賂はそれだけか?全然足りないな」

そう云ってやると、拗ねたように唇を尖らせる。

「先生ほんと意地悪だよね。いいんだ、先生が教えてくれないなら芦原先生に訊いちゃうから。明日電話しよっかな、デートしましょうって」
「そんなことしてみろ、殺してやる」
「どっちを?」
「芦原」


薄暗い天井に軽やかな笑い声が吸い込まれる。


「酷い人、かわいそう、芦原先生。先生が素直に教えてくれないばっかりに死んじゃうんだ」

つまり芦原を見殺しにしてでもどうしても知りたいということか。
緒方は溜息を吐くと、自身の胸板に頬をくっつけ愛らしく微笑むその顔を睨んだ。

「中年のそれしか楽しみがないババアじゃあるまいし、止めろ」
「だって気になるんだもの。先生だって不思議に思わなかった?あの塔矢先生が一体どうやって明子おばさまみたいに年下の綺麗な奥さんをもらうことができたのか」

それは図星だった。
塔矢家に門下生として出入りするようになり、漸く慣れてきて周囲を見回す余裕が出てきた時に確かにそれは不思議に思ったことだっだ。


一体行洋がどうやって明子婦人を口説いたのか。


行洋の次の一手を読むことはできても、そればかりはいかんせん微塵も想像がつかなかった。
だから経緯を初めて聞いた時、行洋らしいのからしくないのかさえ判断できなかった。

「…ほら、やっぱり先生も思ったんだ」

思わず浮かべた一瞬の表情を読んで、笑いながら緒方の頬を突つく。
その指を振り払い、二の腕を掴んで引き寄せることで足りない距離を埋めさせる。うなじの辺りに指を潜らせ、強引にキスを降らせると緒方はさも仕方がなさそうに息を吐き出す。


「塔矢先生と明子さんが会ったのは……」





からんからんと規則正しいリズムで下駄が鳴る。

黒い紙袋を下げた男が黙々と歩いていく。
恐ろしく無表情、その上威圧的。
きちんとアイロンの当てられたシャツもとても神経質そうで、たいした知り合いでもないのに往来で声をかけたりしたらそれだけでもう睨まれそうだ。

やがて躊躇うことなく古ぼけた木造二階建ての一軒家の、これまた腐りかけたような木戸を押し開け飛び石を踏んで玄関へと向かう。

鍵のかかっていない引き戸を開けると、上がりかまちで脱いだ下駄をきちんと揃えてから奥に向かう。
狭い廊下を少し行ったところで男は足を止め、ふすま越しに声をかける。

「時枝さん」

すぐにおはいり、という返事がある。
失礼します、と断ってから男はふすまを開く。
時枝はいつも通りの和服姿で、日当たりの良い縁側の座布団の上に座っていた。もう六十近いはずなのに今日も相変わらず矍鑠と背筋は伸びている。

「これお土産です。虎屋のよ」

云いかけて、部屋には時枝以外にもう一人居ることに漸く気がつき口を噤む。

そぐわない、と思った。

湧き上がる違和感。
時枝の客はどうみても女学生だった。
濃紺のワンピースに丸襟ブラウスという制服、黒髪をおさげにして胸の前に二本たらしている。
その女学生がやはり背筋を綺麗にぴんとのばして、傷もある年代ものの碁盤の前に座っていた。

そして節目がちに男に向かって頭を下げた。

男の違和感はますます強くなる。
それに気づいているのかいないのか、立ち上がった時枝が笑いながら「お茶を出すからお入りよ」と、男の返事もまたずにお茶の用意をし始める。
男は女学生に会釈を返しながら、云われたとおりに中に入ると腰を下ろす。

「ちょうど良かったよ、行洋君、ああ、悪いけど掃除ついでにあんたの碁盤ちょっと借りたわよ」
「何がちょうど良かったんですか?」

男は――塔矢行洋はそれでもやはり無表情に自分の大家である時枝を見上げた。

時枝は何か企んでいるような、それとも楽しそうといえば良いのか、活き活きとした表情で行洋に笑いかけた。

「この子がね、あんたに碁を教えてもらいたいんだって」

驚いて少女に視線を向けると、図ったようなタイミングで指を付き行洋に向かって頭を深深と下げたところだった。

「明子と申します。どうか宜しくお願い致します」





「……それから?」

きらきらと好奇心に濡れた瞳が話の続きを促す。
だが緒方は中途半端な欠伸をすると、寝返りを打つことでその視線を黙秘した。

「もう疲れた。俺は寝る」
「えー!?やだやだ、続きはつーづーきー!」

けれどもこちらを向かせようとしても緒方の身体はびくともしない。
しばらくは諦めたような空白が続き、緒方が力を抜き本格的に眠りに落ちようとした時ベッドが軋んだ。

その意味を考える間もなく、緒方の耳元に吐息が触れた。

耳朶を噛まれて一瞬その身が硬直する。与えれる刺激から逃れるように緒方はごろりと身体を転がした。

「続き、聴きたいな」

が無邪気に笑いながら小首を傾げてみせる。
今夜最大の溜息を吐くと、緒方は気だるい腕を差し伸べる。

「お前はろくなことを覚えないな。今日は本当にもう駄目だ。お前も寝ろ」
「明日話してくれる?」
「さあ?少なくともしつこくされればされるほど云いたくなくなる人間も居るな」

そう云って抱き寄せると漸く大人しく目を閉じた。


「でも私にろくでもないこと教えたのは先生なんだからね……」