緒方はコーヒーカップを傾けて、砂糖もミルクも一切混じっていない液体を味わった。
片手には英字新聞、目の前にはホテルのモーニングセット。
一月四日なんて正月なのか正月じゃないのか微妙な日付の所為なのか、客はほんのまばらにしか居ない。
スーツ姿で時間を気にする様子もなくホテルで朝食をとる姿は傍目には極めて優雅なビジネスマンに映ることだろう。
だが現在緒方がその平均よりも怜悧な頭脳を働かせているのはダウ平均株価のことではない。何故自分は朝食を取ろうとしないかという非常に私的な傾向についてだった。
蜜のようなほんの短い間、が緒方の家に居た時はその付き合いで朝も食事をした。は三食きちんと取るタイプだったからだ。
そのが消えてからは元の木阿弥で、それどころか主食が酒な日々が続いたこともあった。
だが今はは手元に戻ってきた。東京に出てくるのは来年で、名古屋と東京という相変わらずの遠距離だが去年の今頃と比べれば雲泥の差だ。
リーグ戦の方は現在進行形で行われているものの、直ぐ眼前に大手合いはない。食事を遠ざける原因となりそうな精神的負荷はこれといって見当たらない。
面倒くさいから、今回はこれは通じないだろう、目の前にホテルのシェフが用意してくれたものがあるのだから。
なら、喰う気がしない、結局はこれか。
健康のことを考えれば朝食を取った方が良い、なんて台詞は耳にタコだ。同種のものにアルコールを控えろというのもあるが、云われる度に反抗期の中学生のように余計酒を飲み干したくなる。つまるところ自分は健康が嫌いなのだろう。
緒方はカップをソーサーに戻すと、銀のフォークを手に取った。英字新聞を開いたままの行儀の悪さで、未だ左右対称のままのラグビーボール形を保っているプレーンオムレツのどてっぱらに穴を開けてみる。
殆ど固まってしまったその隙間からゆっくりと薄い卵黄液が溢れてきた。
残念ながらあまりおいしそうには見えない。
出された直後の半熟状のものに同じ行為をしたなら、もしかして少しは食欲がそそられたかもしれない。
けれどもオムレツにフォークを突き入れる気になったのは現在の緒方であって、30分前の緒方ではない。運ばれてきた直後はそんなことさえする気にならなかった。
英字新聞をたたみながら、グレープフルーツジュースに手を伸ばす。結果的にモーニングセットで口をつけたのはこれだけだ。
左腕に視線を落とす。そろそろいい頃合かもしれない。
健康的な朝食は叶わなかったが、適当な暇潰しにはなった。
オムレツの皿を押しやり灰皿を手前に置く。
火を点けて、煙で肺を満たす。
朝食が終わったら、ここを出よう。
緒方は自らにとっての『朝食』を深く吸いこみ、美味そうに瞳を細めた。







ブラジルのチョウの羽ばたきはテキサスでトルネードを起こすだろうか?




「緒方先生」
緒方は脚を止めた。声をかけられなかったなら、危うく行き過ぎるところだった。
声の発信源を求めて身体を右に向ける。半分ほど開け放たれていた引き戸の影に留袖姿の婦人が居た。ペルシャっぽい絨毯と平行に存在する日本的な引き戸というミスマッチに加え、普段余り目にすることのない着物姿は最早意味もなく笑い出したいほど非日常的に感じた。
わざわざ草履を履いて出てこようとするのを手で制し、緒方はそちらに歩み寄る。
「もう撮影は始まってるんですか?」
「いいえ、そちらはまだですわ。でもさん、先生がいらっしゃらない、いらっしゃらないってやきもきなさってましたのよ。さ、どうぞ、お入りになってくださいまし」
片手で袖を押さえ、上品に奥へと手を差し向ける婦人に誘われて畳を踏む。
婦人の名は久我山桐子という。
浅葱色の留袖に帯は茶と金、帯揚げと帯締めは桔梗色という五十路も半ばのはずなのにさらりと若々しい着こなしをしている。やはりこの不景気に銀座で呉服屋の女将を勤めているだけある、と褒めるべきか。
初対面にも関わらず、些か意地悪くそんなことを思いながら奥へと向かう。
踏んでも良いものなのかいまいち判断がつきかねた為、縦横無尽に走るコードの類を避けながら進む。奥といっても二間しかないのだが、そうやって足元を気にしながらの歩行はまっすぐ直進するより時間がかかる。
やっと襖の境に辿り着き、次の間を覗き込む。
居た。
清潔な白い障子戸を背景に、それ以上に真白な振袖を纏って座敷の中央に座していた。
正確には真っ白という訳ではない。目にした瞬間の印象が純白だったのだ。その左肩とたおやかに畳に広げられた振袖には淡い撫子色の花びらを金で縁取られた牡丹、さらにその牡丹の上を金糸で刺繍された蝶の群れが羽ばたいている。
帯は金糸の施された黒、帯揚げは深紫、帯締めは深紫、朱赤、緑を使い、扇のように広がった花づくし。
髪は結っていない。
しっとりと椿油をなじませた髪はより深く黒々と艶を増し、無造作なまでにひとつに集められて右肩から胸に向かって垂らされている。
そして露わになった左の耳の下、そこに薄化粧の中で唯一色を載せた唇と同じ真紅の牡丹の生花が一輪差してあった。
緒方は咽喉を出掛かった溜息を飲み込んだ。
自分の背後に桐子が立っていることを思い出したからだ。そんなあからさまに見惚れてしまいました、と云わんばかりの真似をしたら後々何を云われるか解ったものではない。
「どうです、綺麗でしょう?」
振り返ると桐子が満足げに微笑んでいる。自分のことでもないのに誇らしげですらあるその笑顔の理由が緒方には理解できない。差し出されたポラロイド写真に目を落としながら、緒方は曖昧に苦笑した。
「ええ。とても素晴らしい着物ですね」
「あらあら、かわいくない言葉ね」
「女性の前で別の女性を誉めるほど馬鹿ではないつもりです」
桐子がほほ、と軽やかに声を立てた。もう花の盛りは過ぎているのに、鮮やかな紅を引いた唇で緒方でさえぞくりとするほど艶やかに微笑む。
毒婦、という言葉がとっさに浮かぶ。この上品で虫も殺せないような婦人はその色香ひとつで一体何人の男を路頭に迷わせたのか。
さんに教えてきてさしあげましょう、待ち侘びていた先生がやっといらっしゃったわよって」
緒方は桐子の婀娜な空気を振り払うように先程飲み込んだ溜息を吐き出した。
「止めておいた方がいい、せっかくの準備が一からやり直しになります。聴いた途端に立ち上がって走り寄ってきますよ」
「愛しい殿方のところへと?まあ、ずいぶんと愛されているって自信がおありなのね」
そう云ってまた桐子は上品に笑う。
緒方は返答に窮してへと視線を戻した。
これが他の奴なら云い返す台詞になど困らないが、相手が桐子ではどうにもやりずらい。
やはり久我山の血族だけあるということか。
そう、桐子は奴の伯母に当る人物だ。
『奴』こと、この話を持ってきた某腐れ縁の悪友・久我山一樹自身、桐子を指して妖怪ババアなどとぬかしていたが、こういうことかと合点がいった。
(確かに魔物じみているな)
未だに白く木目細かい桐子の頬を横目に見て、だから緒方は話題を変えることにした。
「何故碁盤が?」
緒方の立つ辺りなどコードと機材と人間で犇めき合っているのに、の周囲半径二メートルだけはまるで結界が張られているように綺麗に畳が覗いている。
しかしその空間に場違いに碁盤が置かれているのだ。
は二の腕まで振袖を捲り上げた腕を脇の女性に預け、肘まで白粉をはたいてもらっている。通常なら精々手首までで十分なはずだ。それを肘までふるっているのは、つまり石を打つ時に袖がめくれて手首から先も露わになることを見越してなのだろう。
さん、碁が打てるとおっしゃったから。ああいう女性らしい着物姿で、碁みたいな男性的で硬いことしている絵もいいかしら、と思って」
そっと袖を戻しながら、が隣の女性に笑顔で二言、三言話し掛ける。女性は反対側に周り、畳の上に広げられた袖を直しながらもやはり笑顔で言葉を返す。
は笑っている。
だが緒方にはが酷く緊張しているのが解った。
これだけ傍に居るのに、全く緒方に気付かないのが良い証拠だ。
「打てるもなにも彼女は私と同じプロだったんですよ、事情があって短期間で辞めてしまいましたが」
「え?そうなんですの?あ、そういえばあのお写真にも碁盤が在ったかしら?」
の脇から女性が離れた。
同時に確認の声が乱れ飛ぶ。
背筋を伸ばし、両手を膝に載せたは睨むように碁盤を見つめている。
神経を引き絞る音がこちらまで聞こえてきそうだった。
ひとつ、瞬いて。
碁笥がじゃらと鳴いた。
その瞬間、緒方の抱いていたものは予想だったのか希望だったのか。
(4の十六、星)
しなやかな指先が星を打ち落とす。
(17の四、小目)
胸中の呟きを追うようにの指の白石はやはり17の四に置かれる。
シャッターのきられる音を切り裂くようにさらに続けて石を打つ。
緒方は目を細めて黙ってその光景を見ていた。
が緒方と来栖聖二の棋譜を並べる様を目にしたのはこれが初めてだった。
何でも良いから並べてみろ、と云われてが選ぶのは端からたったひとつしかない気がしていた。がプロとして在籍した短い期間に緒方も良い勝負だったと褒めた碁が在る。緒方と打ったものの中でもそう悪くないものならいくらでも在る。
だがきっとの中で価値の在るものはひとつだけなのだ。
迷いも惑いもなく、は陰と陽の世界を織っていく。
おそらく何十回も、いや、百を過ぎるほど並べたに違いない。
女性カメラマンは二段しかない脚立を忙しく移動させながら、斜め上から絶え間なくシャッターを押していく。そのカメラマンに合わせてライティングも絶妙な角度でを照らす。
けれどそんなもの目に入っていないのだろう、の凛とした瞳は盤上しか捉えていない。
幸いにも緒方の両親も祖父母も健在だ。自分に碁を教えた父や祖父は緒方が勝っている時は何の連絡も寄越さないくせに、負けると即日嬉しそうに電話をしてくるほど元気を持て余しており、まさしく殺しても死にそうにない。
緒方は近しい人間の『死』に触れたことがない。
自分の周囲を取り巻く親しい人々を亡くしたこともない。葬式用に礼服を着たのだって本当に遠い他人の為にだった。
どうやっては父の死をあの幼さで消化したのだろう。
いまさらこんなことを思うのは緒方が死を恐れるようになったからに違いない。
安穏と距離を取って自分だけは無関係だと傲慢に拒絶していた。
けど、そんなことは不可能なのだ。
距離を取って、離れたつもりになっていたのはただの勘違いだ。
本当は生まれ堕ちた時から自分で確認することのできない背中に張り付いている。
緒方は静かにを見つめていた。
細やかな光を浴びたの肌は陶器のようで、まるで人形じみた美しさだった。



かつん、という音。
それを最後にがふう、と息を吐き出して顔を上げた。
ライティングの所為か、集中していた所為か、その額はうっすらと汗で湿っている。
同時にどこからともなくぱちぱちと拍手が湧き起こり、がはっとしたようにその目を周囲に向けた。
撮影自体はとっくに終わっていたが、誰もが打ち終わるまでその手を止めようとしなかった。
「え、あの……あ、れ、もしかして…あっ、あーっごめんなさい、私!」
「いいのよ、さん。どうもありがとう、とても良いお写真が撮れたわ」
慌てて立ち上がろうとするにおっとりと桐子が声をかける。
その声に引き寄せられて視線を移したは、桐子の横に立つ緒方を認めてぱっとその表情を輝かせた。
「先生!」
緒方が止める間もなくするりと立ち上がると、蝶々の袖を揺らめかせて舞うように機材の間を縫って駆け寄ってくる。
「先生遅い!女の化粧は時間がかかるから時間潰して来るって云っといて先生の方が時間かかってるじゃない!」
おまけに制止しようとした緒方の腕まで掻い潜り、ぎゅうと胸に抱き付いてきた。
絹の羽を持つ蝶の動きに引き寄せられた人々の視線が今度は緒方に突き刺さる。
できることなら天を仰いでしまいたい。
だが緒方は表情を変えることなく、ずり落ちかけた左耳の牡丹に手を伸ばした。
「騒ぐな。それに着崩れるから離れろ」
「ねえ、先生、私この姿で先生とお写真撮ってもらいたい!」
「後回しだ。とりあえず目の前の仕事に専心しろ」
「……はぁい」
がしぶしぶ緒方から離れた。しかしそれでも牡丹の位置を直してやっている緒方を上目遣いに睨んでくる。
その隣では緒方がわざとその存在を黙殺しているのを承知で、桐子は袖で口元を覆い意味ありげにふふふと笑っている。
まさしく奴の伯母だ、と思わずにいられない。
「あらあら……ご冗談かと思ったら、緒方先生の自信もまったくの出鱈目ではなかったのね。どうしたらそうまで誰かの心を繋ぎ止められるのか教えてもらいたいわ」
「何の話ですか?」
がふいと桐子の方に顎を逸らす。
君、駄目だ。ちゃんと付け直してもらいなさい」
「え?あ、はい、ごめんなさい、失礼します」
緋牡丹を差し出すと、は素直にそれを受け取って先程白粉をはたいてくれた女性のところに向かう。
その後ろ姿を見送る桐子の笑みが深くなる。
「わたくしの周りにも割といるのよ、歳の離れたご夫婦。でも大概は旦那様が若い頃散々女遊びをし尽くして、四十路も後半になってやっと腰を落ち着けようかと思い若い奥様を娶られる方ばかり。そういう方って、若い奥様の我侭も可愛いものだと受け流せる余裕が生まれているし、自分好みに仕立てる楽しさみたいなものがあるようなのよね。ああ、緒方先生はまだ若くてらっしゃるし、女遊びが過ぎて刺されたこともあるようなオジサンと比べるなんて失礼だったわね、ごめんなさい」
「いいえ、お気になさらないでください」
緒方は鉄壁の笑顔で返した。
桐子もにっこりと完璧な笑顔を返す。
余談だが、緒方が負ける毎にこれ以上この世に楽しいことは無いとばかりに浮き足立って電話をかけてくる、あのクソ忌々しい声を聴く度に確信することがある。
自分の性格の悪さは血に違いない、と。
それと同様に人をおちょくらずにいられないのが久我山の血なのだろう。
「本当に素敵な写真になりそう……一樹君にお年玉奮発しなきゃ」
だから腹を立てても仕方のないことだ、と自分に云い聞かせていた緒方は危うくその言葉を聞き流しそうになった。
「…………あの、イツキという名前のお子さんが久我山君以外にもいらっしゃるんですか?」
「いえ?おりませんよ、一樹と云ったら、弟夫婦の一樹しかおりませんわ」
「ではお年玉を奮発というのは…」
ああ、と桐子が合点が行ったという風に笑う。
「死ぬまで伯母と甥の関係なのだから、生きているなら死ぬまでお年玉寄越せって云うのよ。可笑しな子でしょ、去年はフェラーリの自転車をねだられたのだけど」
あのブルジョアの小倅が。
今度会ったら問答無用で後頭部をぶん殴りそうだ。
緒方の心理的葛藤に気付いた様子もなく、桐子が頬に手を当ててうっとりとした表情での背中を見つめる。
「今って染めていない天然の黒髪のお嬢さんって珍しいでしょう?容色に恵まれている子ほど手を入れがちで。あのお着物、今回の中じゃ一番気に入っていて表紙に使いたかったのだけど、なかなかイメージに合うモデルさんが見つけられなくて……さんのお写真拝見させて頂いたんですけど、一目見て似合いそうだなって。良かったわ、一樹君が緒方先生を紹介してくれて…」
まだほんの一週間前のことだ。
出し抜けに年の瀬も押し詰まった29日、非常識にも深夜二時過ぎに電話がかかってきた。
『あーのさー、お前のムッチャカワイイハニーちゃんを一日貸して欲してくんない?』
「断る」
緒方は通話を切った。
一秒後に携帯が鳴った。
『おっまえ、話もちゃんと聴かずに切るなよなー。これだから非常識な奴は嫌なんだよ、お前周りから云われねぇ?緒方先生ってちょっと変よね〜って』
「用件を云え」
『だ〜からお前の犯罪上等なロリロリハニーちゃんを一日レンタルしてよ』
「断る」
緒方は通話を切った。
半秒待たずに再び携帯が鳴った。
『テメエ勝手に切んじゃねぇよ!話終わってねえだろが!』
「断る」
『まだ何にも云ってねぇっつーの!』
「断る」
結局十分で終わる話を深夜に一時間以上も押し問答した末、漸く話がまとまった。
要するに銀座で呉服屋を営んでいる伯母が来年のカタログ用のモデルを探している。条件は黒髪ロング、例の雑誌を見た限りじゃ美形だしにやってもらえないか、という話だった。
たかがここまで漕ぎ着けるのに20分を要し、緒方が通話を打ち切ること13回、久我山がリダイヤルすること25回(何故リダイヤル回数のが多いかというと、かかってきた瞬間に緒方が切った回数が加算されるから)。
が。
緒方は即座に断った。
モデルの話は本当だろう。そんな伯母が居るのは知らなかったが、久我山の実家がいろいろと華やかにやっていることぐらいは知っている。櫻田は行き過ぎだが、あの雑誌が出た後に碁とは無関係の手紙が棋院に送られてきたぐらいだ、色惚けの欲目を差し引いたとしてもの容姿も問題ない。
だが久我山が噛んでいる。
神に誓って絶対ろくなことにならない。
防衛本能が激しくそう訴えるので固辞していたのだが、あまりにもしつこく久我山が喰い下がるのでだんだん面倒くさくなってきた。
は確かに四日から緒方のところに来るが、撮影に付き合うのはその四日限りだし、第一が嫌だといったらこの話は一切なしだ、それから貴様が撮影現場に居たらその場で帰るからな、とぶちぶち一方的に条件を出したらそれでいいという。
おまけにの往復の交通費も出すし、モデル料と適当な着物一式も付けるという。
翌日に連絡したら着物が着れると嫌がるどころか喜んでいた。
その結果迎えに行った緒方共々、は東京駅から直にロケ地であるホテル入りすることになったのだった。そのの準備が整うまで一人レストランで暇を潰していたのが一時間半前の緒方だ。
しかしどうも認識の溝を感じる。桐子は甥っ子の一樹君と緒方との美しい友情を信じているようだが、はっきり云ってこの話を受けた理由にそんなものこれっぽっちも含まれてない。
『着物姿っていいよなー、解るぅ、お前?あの襟足とかどうよ、着方によっちゃ覗き込むと背骨のラインが見えたりするわけよ、またそれがスゲエソソるわけよ』
今回の話を受けたのは、交渉の後半40分、延々しつこく着物の素晴らしさ(というかエロティシズム)を語る馬鹿の言葉を聞き流してるうちに段々見てみたくなっただけなのだ。
の着物姿を。
左半分だけ覗いているその白い襟足に視線を投げながら、緒方はごく平然とした顔の奥であらぬ想像を抱いていた。
「本当に良かったわ、緒方先生がちょっぴりロリコン趣味のあるお方で」
気を抜いていたところへのその不意打ちに、緒方は割合本気で傷付いた。




結局撮影は三時過ぎまでかかった。
それは久我山との間で交わされていた撮影に要する拘束時間を大幅に超過するものだったが、緒方はそれを咎める気にはならなかった。
途中から飽きてラウンジへ避難していたものの、桐子のその仕事振りには共感できた。おそらくパンフレットに載せる写真など精々二、三点のはずだ。それなのに呆れるほど大量にシャッターは切られるし、いちいち髪だの着物の皺だのを直す。
緒方にしてみればどうでも良いようなことも、桐子にとっては違う。
冗談ではなくたかが髪一筋の位置に真剣に迷う。
その姿を目にして、さっきは理解できなかった桐子の笑顔の意味が解ったように思う。きっと桐子にとっての美意識というものは、緒方にとっての碁と同じようなものなのだ。
それが無かったら死ぬ。
女というよりは人間的に共感を覚え、緒方は約束の時間を過ぎても好きにさせていた。
「先生、なんだかすっごくデートっぽいと思わない?」
斜め下からの声に緒方は視線だけで返事をした。反駁しない代わりに同調もしない、その温度差に堪えた様子もなくが緒方の肩に頬を寄せる真似をする。
おかげでまるで羊の角のように耳の上で丸められた三つ編が二の腕にぶつかった。
ホテルの側に神社があるからせっかくだからお参りしてきたら、桐子に奨められた。は即座に笑顔で緒方を振り返った。その顔には本当に視認できそうなほどあからさまに行きたいと書いてある。
一瞬渋い顔を見せた緒方を読み取り、がお年玉代わりに連れてってとせがんだ。それぐらいで満足するのならどこかの馬鹿と比べるとなんともお手軽なお年玉である。
は先程の撮影で着ていた純白の着物姿だ。ただし帯締めも帯も結び方を変えたし、髪に挿していた牡丹も無い。は可愛いと喜んでいたが緒方に云わせれば妙な風に髪をまとめ、化粧も強い紅を落としてほとんど色のないグロスに変わっている。
確かにあの姿で外は歩けないだろうが、緒方としてはあの姿の方が好みだったのでどこか口惜しい。
「デートっぽいってことはデートじゃないのか?」
意地悪くそう云ってやると、白い袖を口元に翳してが小さく笑う。
桐子はこの純白の着物が気に入っていると云っていた。だからおそらく報酬の一端である着物一式というのは当初はこの着物ではなかったはずだ。
『売り物にはならないデザインだからもらってやって頂戴』と云っていたが、確かに白地の上に前衛的な模様、おまけに着物に興味もないずぶの素人の緒方から見ても素材が良いのは解る。このデザインの上、値が張るのでは普通のお客は手を出さないだろう。
だが銀座という立地条件を考えれば、所謂玄人筋が買う可能性は十分にある。よしんば売れずとも久我山の家が潰れるとは思えない。桐子の個人的なコレクションにしても良いはずだった。
それなのにこの着物を与えたのは、ある意味桐子からへの最高の賛辞なのだろう。
は真摯に桐子の言葉や身振りに耳を傾け、できるだけそれを再現しようと努めた。その甲斐あってか、全てを終えて緒方のもとに現れた桐子は晴れやかな微笑を湛えていたのだから。
「いいえ、これはデートでーす。着物って得だね。先生がいつもより優しい」
不慣れな振袖と人込みの為に、緒方は珍しく手を繋ぐことを許可していた。
綺麗な衣装と滅多にない僥倖、何より緒方と一緒だという事実だけではさっきからはしゃいでいる。
「いつも優しくなくて悪かったな」
「あ、嫌!」
からかうような言葉に繋いだ指を振りほどく仕草を見せると、途端に慌てたようにが両手で緒方の手を包む。
「嘘よ。先生はいつも優しいよ」
そう云ってほんの少し小首を傾げて艶々とした唇で微笑む。
緒方は溜息を吐いた。
どうも上手いこと操縦されている気がしないでもない。
しかも実際なんだかんだ云っても自分はそんな容易い手練で機嫌をとられてしまっているのだから性質が悪い。
そんな軟弱な自分へのささやかな抵抗の代わりに、緒方は唇の端を吊り上げての耳元で囁いた。
「いつもって何時のこと云ってるんだ。夜のことか?」
今度は緒方がの指を引き止める番だった。









「ただいまー」
玄関をくぐるとがそんなことをさらりと口にしたから緒方は少々面喰らった。
が緒方のマンションで過ごしたのは思い出すのが恥ずかしいくらいに束の間だった。
本当は少しだけ恐れていた。
この部屋にを連れてくることを。
昨年の碁聖戦の名古屋以来、と会うことそれ自体が四ヶ月ぶりだ。が最後にこの部屋に来たのなんて一年半以上前のことになってしまう。
あの破滅の日でがここで過ごした時間は止まっている。
スイッチが切り替わるようにあの時のことを思い出してしまうのではないかと危惧していた。
「先生、私またあのお部屋に荷物置いておいてもいい?」
だがはごく自然な顔で草履を揃えながら緒方を見上げる。
その表情を目にして緒方は猛烈に口付けたくて堪らなくなった。
「ああ。あの部屋はお前のものだ、好きに使え」
「ほんと?わーい」
は元気よく立ち上がるとそれほど大きくもない荷物を持って奥へと向かう。
一瞬の間の後、緒方は苦笑いして靴も脱いでいない姿で壁に寄りかかった。
羽ばたく時に捕らえようとした白い蝶々は予想以上に俊敏で、緒方の指を擦り抜けて飛んでいってしまった。
時々自分は実は酷く繊細なんじゃないかと錯覚しそうになる。
獲物を逃してしまっただらしのない左手を目の前に掲げると、その五本の指を緒方は嘲った。
「せんせーい!なんだかインターフォン鳴ってるみたいなんですけどー!」
緒方は肩を預けていた壁から身を起こし、漸く靴を脱いだ。
廊下を進むと、居間のインターフォンの前でが両手を落ち着きなく組替えつつ佇んでいた。
その横に並び、通話ボタンを押す。
『あ、こんにちは宅急便でーす』
繋がった途端にスピーカから声が溢れた。何となく眉を顰めながら緒方は記憶を探る。何かを頼んだ覚えも、誰かから何か送られてくる予定もない。
「誰からですか?」
『はい、え〜…ショップ・クガヤマとなってます』
「久我山?」
脳裏に思い出したくないツラが無遠慮に押し寄せてくる。
確かに約束通り久我山は撮影現場には現れなかった。
が、桐子に奨められた神社に行ってみると待ち伏せしていやがったのだ。
桐子にまんまと謀られた。
やはりというか、当初の緒方の予想通りろくなことにならなかった。ついさっき新年早々神社で捕り物の手伝いをさせられたばかりだ。
「あ、はいそう書いてあります緒方精次様宛てです、え〜お品物は…………」
嫌悪感も露な緒方の声音に気圧されたように勝手に喋り始めたくせに、配達員は何故かそこで沈黙した。
ここで避けてもいずれ思わぬ角度から被弾する。
だったら左斜め上から爆撃されるよりは、初めから防御を固めた正面から受けたほうが被害を最小で喰い止められるのではないか。
そんな後ろ向きな気分で溜息を吐くと緒方は玄関のロックを解除するボタンを押した。
「解りました、上がってきてください」

「ハンコお願いします」
数分で某運送会社のユニフォームを来た若い配達員が上がってきた。
別にこの男の働きぶりに不満があるわけではない。そうではなく招かれざるプレゼントに対して不機嫌な空気をその身に纏わせ、云われた通りに差し出された荷物に判を翳したところで緒方の動きが固まった。
先程どうしてこの配達員が云い淀んだかが激しく腑に落ちた。
その伝票の品名にはでかでかとこう書かれていた。
『大人のオモチャ』、と。
緒方は無言で判を押した。
「ありがとうございましたー」
最後に一礼すると、配達員はわざわざ走ってエレベータホールに去っていく。最後まで緒方の顔を盗み見たりしないあたりは会社の教育の賜物か。
とりあえずしばらくあの業者は使えん、と腸の煮え繰り返る思いでドアを閉める。
心情をそのまま表した乱暴な足取りで居間を通り過ぎ自室に向かう。の姿はなかった。自分の部屋で荷物の整理でもしているのだろう。
扉を閉めると、緒方はガムテープ毟り取った。一緒に剥がれてきた伝票もろともガムテープを忌々しげに丸めて屑篭に放り込む。
ベッドに腰を下ろして蓋を開くと、今時墨で真っ白い和紙に書かれた手紙が目に付いた。
あのちゃらんぽらんさからは想像もつかない、流麗な文字でしたためられた『新春の候』から始まる前文を腹が立つので読み飛ばす。
慇懃無礼とはまさに奴ことだ。
結局だらだらと手紙の書き方でも丸写しにしたような文句が続き、最後の一行で漸く久我山の言葉らしきものが見つかった。

墓穴までお幸せに

それだけ。
緒方は後方にその手紙を放り投げた。
別に罵られたり蔑まれている訳ではない。おそらく久我山なりの気遣いだ。
だが奴に云われるとこうまで無性に腹立たしいのは何故なのだろう。
素直に礼を云うより貴様に云われる筋合いはないと啖呵を切りたくなるのは、久我山の日頃の行いが悪い所為なのか。
手紙の存在などコンマ一秒で脳裏から消却して今度はダンボールの中身を取り出してみる。
中には熨斗のついたものがふたつだけ。
ひとつは緒方宛て、ひとつは宛て。
緒方は開封する前から苦々しく眉間に皺を湛えて包装紙を破った。
中から現れたダンボールの蓋を開けてみて嘆息する。
毒々しい蛍光ピンクや蛍光イエローのパッケージに包まれたコンドームが詰まっていた。
本当にあの男は馬鹿か。
現在は刑事部参事官と公安部参事官と生活安全部参事官を兼任していると云っていた。要は歌舞伎町関連の取り締まりだ。順調にエリート街道を邁進中のようだが、あんな奴を雇っていたらいずれ日本は潰れるぞと真面目に思う。
緒方は蓋を閉じると部屋の隅に向かって蹴り飛ばした。
奴からもらった避妊具なんて気持ち悪くて使う気にならない。最中に萎えること間違いなしだ。
もうひとつの宛ての方の熨斗も乱暴に剥ぎ取る。
プライバシーの侵害もクソもない、中も確認もせずに正直に渡すなんてアレを見た後でできるわけがなかった。本当に電気仕掛けの玩具が入っていたら笑い話にもならない。
だがそちらは杞憂に終わった。包装紙を引き裂いた途端に甘ったるい匂いが溢れてくる。
猫のイラストが印刷された箱。
開封せずとも中身がチョコレートだと匂いだけで解った。
どこかで聞いたことのある名前と品のよさげな箱だ、阿呆みたいな媚薬入りチョコではないだろう。
緒方は呆れ果てて、眼鏡を外すと重苦しく息を吐き出した。
あいつは何をやりたいんだか。
緒方をおちょくって楽しんでいるとしか思えない。
脱力しているところに不意にノックの音がして、が遠慮がちに扉を開く。
「先生、何してるの?」
入っていいのか躊躇っているように扉の影から顔を覗かせて声をかけてくる。
緒方は指でを招いた。
「久我山からだ」
チョコレートの箱を差し出すとが嬉しそうに頬を綻ばせた。
「デメルの猫ラベル!私がもらっていいの?」
「ああ、お前にって送ってよこした」
「じゃあ今度御礼云わなきゃ。先生、今度はいつ久我山さんと会うの?それともお電話したほうが良いかな?」
「俺から適当に云っておくからお前は気にするな」
もちろん礼など云うつもりなどない。むしろ苦情なら云いたい。
箱を受け取ったがうきうきと緒方の横に腰を下ろす。
真白な膝に箱を載せ、ゆっくりと蓋を取る。
中から長方形でも楕円形でもない所謂猫舌型のチョコを取り出し、一口齧るとまた笑顔になった。眼鏡を指で玩びながら緒方はその様をただ黙って見ている。
ふと緒方の視線に気が付いたように、印刷された猫の絵を眺めていたが視線を上げた。
「先生も喰べる?」
真っ白な細い指で緒方に一口齧ったチョコを差し出す。
緒方はほんの少し肩を傾け首を伸ばした。
ぱき、と音を立てチョコレートが割れる。
舌を使って口内に引き込むと、緒方はの顎を捕らえて自分の方に上向かせた。
甘い欠片を押し込むと唇を離す。
「…………いらないならそう云えばいいのに」
口を動かしながらが不平を云う。
その苦情を黙殺してスーツの内ポケットを指で探る。
緒方はチョコが欲しかった訳ではない。
ただの指から何かを与えられてみたい気分だっただけだ。
緒方はの膝の上からチョコレートの箱を奪うと脇にどかせた。それに従いながらも不思議そうに瞳を瞬かせたの手を取る。
「えっ!?」
薬指に現れた指輪にが驚く。
プラチナの台座におもちゃのように大きいブルートパーズ。六本の立て爪の内のひとつにさらに小さなブルートパーズが垂れ下がったちょっと変わったデザインのものだ。
あまり緒方の趣味ではないが、の歳を考えればこれぐらい遊びがあるものの方が普段に使いやすいだろうと思ったのだ。
「先生、何?どうしたの、これ?」
「お年玉だ」
緒方はまだ何か言葉を紡ごうとしていたその唇を塞いだ。
間接的にチョコレートを味わいながらを抱き寄せる。
唯一露出しているうなじの肌をてのひらで撫でると、が身じろいだ所為で唇が外れてしまう。
「せんせい、ダメ…着物……」
身体を放そうと緒方の胸にか弱い両手を突き、キスだけで熱っぽく潤んだ瞳でが見上げてくる。
逆効果としか映らないその仕草に笑いつつ、緒方はの身体がうつ伏せになるようにぐるりとベッドに転がした。
そのまま帯を潰さないようにしながら背後からその身に覆い被さる。
「や…っ、やだやだ先生止めて!」
「着物だと嫌がられると余計そそるな。悪代官になった気分だ」
「嫌っ」
「安心しろ、汚すようなヘマはしないから」
シーツを漕いで逃れようとするの両手を捕らえてさっき触れたばかりのうなじに唇を落とす。
の抗議の悲鳴が徐々にシーツに吸い込まれていく。




ベッドの端からチョコレートの箱が滑り落ち、甘い匂いをばら撒いた。