「ウワサになってますよ」

芦原のその言葉に、緒方は火を吐けようと煙草の先端に近付けていたジッポーを下ろした。
「何がだ?」
「緒方先生とちゃんですよ。この前のゼミ、先生、ちゃんを抱き上げて部屋に連れてったり自分の車に乗せて連れ帰っちゃったでしょ〜?だから噂になってますよ、緒方先生はロリコンなんじゃないかって〜」
いつも通りの砕けた口調、坊ちゃん然とした笑顔。
けれどその目は笑っていない。冗談に紛れさせて緒方の本音を探ろうとしている。
「鋭いな」と返そうとして、緒方は止めておいた。芦原の顔を見ればそれが質のいい冗談じゃないことぐらい予想が出来た。
緒方はお預けになっていた動作を再開した。火を点けて煙を吸い込んで、そして吐き出す。
「抱き上げた覚えはない。根が生えたように動かなかったから肩に担ぎ上げて運搬しただけだ」
「どっちでもいいですよ、そんなのは」
わざと会話を躱そうとする意図を察して、芦原がむっとしたように片目を細めた。芦原なりに心配してくれているのだろう。
「どうするんです?」
「どうもしないな。周囲が何を云おうが俺には関係ない」
煙を吐く。
口の中に広がるのはいつもの味だ。
「俺は俺だ」






          ≪04 homeostasis≫






駐車場に車を入れて棋院に向かう。
おそらくもう何百回と繰り返してきた行動だ。棋院の隣にビルが建ったり一階が改装されたりと風景は年を追うごとに変わっていったが、この道筋は変わることはなかった。身に染み付いた慣性は無意識に脚を動かしてくれる。
暖気を帯び始めた風が煙草の煙を背後へと流す。


  『例えば。
  それはどんな人込みの中でさえ引き寄せられるように容易く見つけることなのだ。』



いつどこで目にしたのかも思い出せないのに、今やけに鮮明に脳裏に浮かび上がったセンチメンタルな言葉たち。
忌々しさに緒方はわざと歩みの速度を僅かに落とした。
だが近付くにつれ、どうも様子が尋常でないことが理解できた。

それから顔見知りの初老の警備員。
それともうひとり、こいつは知らない。青年と呼ぶに相応しいまだ若い男だ。ひょろりと痩せた身体にくたびれたネルシャツとジーンズ。片手には丸められた雑誌。院生ではない、さすがに名前までは知らなくとも院生の顔ぐらいは知っている。この男は脳内のデータの誰とも一致しない。
「坂田さん」
緒方はまずを庇うようにして男の前に立つ白髪交じりの男性に声をかけた。
「ああ、緒方先生、良かった」
ほとほと困り果てたような表情をしていた坂田が、緒方を認めてあからさまにほっとしたといったふうに笑顔を浮かべた。
俺は君の保護者ではないんだが、という台詞を飲み込む。ここも冗談を云っている場合ではないようだ。
あのが緒方を見ても唇を引き結んで坂田の影に隠れたままだ。今日の朝になって突然緒方が大嫌いになったのでない限り、坂田と緒方の間に挟まれている男の所為だろう。
君、君は中に入ってなさい」
が厳しい顔のまま黙って頷き、二、三歩後退ってからセーラー服のスカートを翻した。
「あ、ま…っ!」
「君止めなさい!警察呼ぶよ!」
を追おうとした青年を坂田が抑える。それほど力があるように思えない坂田が簡単に取り押さえられるぐらいだから、青年は見た目の通り非力なのだろう。
未練たらしくの背中が完全に見えなくなるまで見送って、それから坂田の腕を乱暴に振り払って無言で睨みつける。
二の腕にずり落ちたバックパックを担ぎ直し、威勢良く振り返ったところで青年は「ひっ」と情けない悲鳴を上げ顎を懸命に逸らした。
「失礼。灰皿かと思った」
青年の眼球すれすれのところに差し出していた煙草を指で弾く。もちろん本気で押し付ける気などはない、からかっただけだ。落下した煙草を踏み躙りながら、緒方は酷く露骨な仕草で青年を上から下まで眺めた。
初めは頬を引き攣らせて青年だが、緒方のその態度に怒りを覚えたのか再度目元をきつくした。
「君は?」
返事はない。
代わりに答えたのは坂田だった。
「雑誌でちゃん見たらしくて」
「雑誌?ああ、あれか」
ポケットの中のジッポーの存在を思い出す。変わらないはずの質量が感覚の中でだけ存在を増す。
「学校を突き止めて待ち伏せしたらしいんですよ。いくら云っても帰らなくて、こんなとこまで結局付いて来ちゃったらしくて……」
坂田の口調は『全く最近の若者は…』といった種類のものとよく似ていた。緒方もそう思う。時にはでさえ異星人のように思えることがあるのだ、口を利いたこともなければ素性も解らない目の前の青年は益々異星人に等しい。
しかもどうやら目の前の異星人は地球式の礼儀を知らないらしい。
睨みつけてくる視線の半分は自分が散々挑発した所為だということは棚に上げ、緒方は身長差を活かして無礼な青年を睥睨した。
「ふぅん……ストーカーか」
「チガウ。俺はただ」
「違わないな。帰れと云われたのにお前は帰らなかった。おまけにこんなところまで付け回して、世間一般じゃそういう日本語の通じない猿をストーカーって呼ぶんだよ」
青年の頬がかっと朱に染まり、睨む瞳に力が篭る。
猿のくせして一丁前に屈辱を感じるのか、と侮蔑を滲ませて緒方は唇だけで笑った。
「テメエに関係ねェだろ」
おそらくは青年の切り札だった台詞だ。
家族でも何でもない貴様に口を挟まれる謂れはない、という介入の拒絶。論理の正当性は兎も角、概ね人は拒絶に対しては怯んでしまうものだ。
「ああ、関係ないね」
緒方の言葉に、青年の目の中に勝ち誇ったような喜びが浮かぶ。
けれどそれは一瞬だった。
青年は自分の吐き出した言葉によって何十倍もの屈辱に突き落とされることとなった。
「でもは俺と関係を持ちたがっている。お前とじゃなくてね」
目を見開いて硬直して、数秒で血液全部にその台詞の意味するものを流し終えると青年は最早殺意さえ感じさせるほどの表情で緒方を睨み上げた。
そして肩を怒らせ、緒方を突き飛ばすような勢いで脇をすり抜けていった。
駆け出していく背中を負け犬を見るような細めた瞳で見送る。
振り返った緒方は「今のはオフレコで」と苦笑しながら坂田の肩をひとつ叩き、到着から10分、漸く棋院のドアを潜ったのだった。







エレベータが開いた途端、清潔なセーラー服が目に飛び込んできた。
だった。
ふわりとした不安げな動きで一歩を踏み出し、緒方を見上げる。
「先生、大丈夫?」
そう囁いたの方が全然大丈夫そうではない。
酷く不愉快な状況に思えた。が、ではない。にこんな頼りなげな顔をさせている原因が不愉快だった。
緒方はの頭をくしゃりと撫でて、奥へと誘った。こんなエレベータの前では話も出来ない。
「雑誌が発売されのか?」
が頷く。これも珍しいことだった。いつもきちんと「はい」と声に出して返事を返す子だった。緒方の胸の不快指数がまた僅かに上昇する。
「これ。出たのは昨日。今日は先生に見せようと思って持ってきたの…」
が鞄からB5サイズの雑誌を取り出す。
ピンクの猫型ポストイットが貼られていたからすぐに目的のページが開けた。『美少女女子高生棋士見参!』などという馬鹿げたキャプションの横で微笑む制服姿のの姿があった。
少し照れたようにはにかみながら、碁盤を前に背筋を伸ばしてきちんと正座をしている。モノクロの粗い印刷を通しても十分その愛らしさが見て取れる写真だった。
(これを見てあの男が現れた訳か)
心中で舌打ちをする。
記事内容にざっと目を通してに雑誌を返す。記事自体は大したことは書いていない。プロ試験の難関さ、今年のプロ試験のの戦績、それから碁に関するの履歴と今後の抱負、最後は『これからの活躍に本誌は期待している』といったお決まりの文句で締め括られている。
「あの人、こわい……」
雑誌を受け取りつつ、がぽつりと漏らした。
「学校の門の所でいきなり声かけられた。私のこと好きだって。でも私好きな人居ますからって云っても、それでも好きだとか云ってずっとついてくるの。腕と髪触られた。気持悪かった。ついてこないでって云っても、止めててって云っても全然聴いてくれなかった……」
緒方を前に気持が緩んだように、の頬が歪む。
零れそうになる目尻の涙を緒方は強引に親指の腹で拭った。
「今日の手合いの相手は誰だ?」
「桂川2段……」
「そうか」
結局反対の瞳からは涙が零れた。緒方はハンカチを取り出すと、それをの手に握らせた。
君の実力なら勝てる相手だ。落ち着けば問題はない」
が口を引き結んで頷く。白い喉が声を殺すために震えている。
「頑張れ」
はねっかえりのにまさかこんな正攻法の励ましをする日が来ようとは思ってもみなかった。いつだって手合いの前には減らず口を叩きあっていたのに。
の首が惰性のように縦に下がる。
開始時間は目前に迫っている。を落ち着かせる為の時間は絶対的に足りなかった。
「よし、行ってこい」
これは拙いという思いを隠し、緒方はの背を押して部屋へと送り出した。



は負けた。
緒方の不快指数はさらに上昇した。











車を走らせながら緒方は無言だった。
カーステレオはわざわざの好みそうな曲を流してそうなFMを選んだ。緒方にしてみれば涙ぐましいまでの気の使いようだったが、どうやらの心に響くことはなかったようだ。
普段なら煩いぐらいに話し掛けてくるのに今は完全にだんまりを決め込んでいる。口を噤んだまま、フロントガラスの向こうに広がるテールランプの群れを見ている。
緒方はカーステレオを消した。
が聴いているようには思えなかったし、体質に受け付けない音楽を聴いているとこっちが苛々してくる。に聴く気がないなら、無理につけている意味はない。
テールランプのオレンジを映した瞳はガラスのようにつるりと光る。
まるで放心状態だ。
だが手合いに負けた所為ではあるまい。あの青年の所為だろう。
本当に、忌々しい。
「ねぇ……先生」
いつもより細い声。
それは事実なのか、それとも緒方個人の感傷がそう思わせるのかは判別が難しい。
「どうして好きっていう気持は一方通行なんだろう」
それは少し違う。必ずしも一方通行な訳ではない。
けれど緒方はあえてそれを正す気にはなれなかった。多分それを告げることは余計を哀しませるだけだ。
「私は誰に嫌われたっていいから先生に好きって云って貰いたいよ」
直球勝負な言葉だからこそいっそ悲痛だった。
だが緒方はその言葉を打ち返すことなく、見送った。
君、君の今週の予定はどうなってる?」
が口の中で「え?」と呟き、半拍遅れて口を開いた。やはりいつもより反応が鈍い。
「……えっと…明日ナミちゃんとケイとゆんちと映画行こうって約束して、ます…後は…土曜の放課後カラオケとか行こうかって確か云ってた…」
「全部キャンセルだ」
「えっ!?」
今度の反応は早かった。
きらきらと街灯の光を反射して驚いたように緒方を見つめている大きな目、前方を向いてハンドルを握っているのに緒方にはそれが手に取るように解った。
「当たり前だろう。おそらくあの男はまた来るぞ。学校が終わったら棋院に来い、家まで送ってやるから。俺が送れなくても芦原とか誰かに送らせる。知り合いにあの男のことは調べさせるから、しばらくはそうやって一人になったり人込みの中に紛れるのを慎め。あの男の名前は聞いたのか?」
「先生ってズルイ…」
がぽつりと呟く。
そんなのは質問の答えではない。緒方はルームミラーでを見た。は俯いて、膝の上で握った拳の辺りに視線を落としていた。
それはの癖だ。何かあった時、よくそうやって手入れの行き届いた爪を持つ手をじっと見つめる。だがはたして緒方以外の何人がそれに気付いているのか。
「私のこと、好きって云ってくれないくせに指図だけはするんだね。そういうのってズルイ、私ばっかり好きで、私ばっかり先生の云うこときいて」
君」
緒方はの言葉を遮った。
目の前の信号が黄色に変わる。アクセルを緩めてクラッチを踏む。
「君の理屈は街頭で勝手に大声で歌を歌った挙句、歌を聴いたのだから金を寄越せと云っている連中と同じだ」
閉ざされた車内に一瞬の沈黙。
「………めんなさい」
消え入るような声。
きっと今は自分の言葉を恥じている。
緒方の胸の不快指数がさらに上がる。だがの所為ではない。
今の台詞。
今のは緒方を守る為の言葉だった。
悪戯にを傷つけた台詞の裏の真実。
保身を図った自分への舌打ちを緒方は殺した。は今酷くナーバスになっている。自分の所為では決してないのに、きっと緒方の舌打ちひとつでさえ気に病むに違いない。
車内に長い沈黙が満ちた。





空気が重い。





「…今日は惜しかったな」
「はい」
はまた負けた。一目差。結果だけを見れば惜敗だが、下馬評では初段同士でもの方が実力は勝っていたはずだった。
「次は頑張れ」
「はい」
会話が続かない。結局また元通りの静寂が二人を覆い尽くす。
窒息しそうだった。二人とも。
翌日、は緒方の云い付けをきちんと守り、友達との約束を断り寄り道をせずに棋院にやってきた。それから5日、はこうして緒方の車でアパートまで送り届けてもらっている。
けれどが緒方に距離を取り始めた。
理由なんて想像するのは容易い。
ひとつは緒方の放ったこの前の台詞。
もうひとつはあの青年――櫻田の存在だろう。
櫻田に付き纏われた数時間、はひたすら怯えていた。だが後に疑問が芽生えた。

『自分もあの男と同じなのではないか』という。

緒方は幾ら愛情を訴えても応じてくれない。
も何度櫻田に愛を繰り返されても応じるつもりはない。
は自分に恐怖を与えた存在と自分の姿を重ね合わせ、緒方にとっての自分の存在価値を酷く卑下し始めたに違いない。
は苦しんでいる。覇気がなく、行動が酷く緩慢になった。なによりあの大きな目をきらきらと光らせることがなくなった。
緒方はを救う魔法の言葉を知っている。だがそれは禁呪だ。
云ってはいけない呪文。
だから黙っている。
胸の中でざりざりと何かが削り取られていくような感覚。
煙草が吸いたかった。けれどその為にはジッポーを出さなくてはならない。のくれたジッポーを。
それさえも躊躇われて、煙草は諦めた。こうやってフラストレーションばかりが増加されていく。
緒方は苛立ちを少しでも緩和させる為にアクセルを強く踏み込み、目の前の軽自動車を追い越すことに専念した。





アパートの前に着くと、が「ありがとうございました」と云って車を降りた。その言葉さえ、まるで今日初めて会った他人に告げているのと同じ様な儀礼的な響きばかりが耳につくようだった。
制服のプリーツスカートを揺らしてがゆっくりと階段を上っていく。
形のよい脚。細い足首の踝が良く目立つ。
歩きながら学校指定の鞄からキーホルダーの付いた鍵を取り出す。
緒方はハンドルに凭れて黒髪が踊るその背中を見ていた。
選択肢などひとつしかないことが解っているくせに、未練たらしくまだ迷っている自分がいる。
報われない荊に縛られているを解放してやるべきなのだ。
が部屋の前に辿り着く。緒方は身を起した。部屋に入ったのを確認したならすぐに車を出せるようギアを入れる。
だが
の様子がおかしかった。
鍵を差し込んだ後、よろけるように一歩後ろに下がった。そのまま背中に当たった手摺を両手で掴む。
緒方はすぐさまエンジンを切ると車を降りた。
「どうした」
駆け上がった先、薄暗い廊下の下、は青褪めた顔で緒方を振り返った。
「鍵、開いてる。絶対掛けたはずなのに……」
緒方はハンカチを取り出すとそれでドアノブを包み、やたら軽いアルミ製のドアをそっと引いた。中は1LDK、ドアから真っ直ぐ内部が窺えた。
靴を脱ぎ、足音を殺してキッチンに面したユニットバスを同様に開ける。
誰も居なかった。
キッチンの先の部屋。女の子っぽい趣味のベッドの掛け布団は捲れていて、クローゼットの引出しからは衣類の端がはみでている。乱雑に部屋をいじられた気配。
それからガラス製の小テーブル。
ブルーのカーペットの上、イエローの脚にピンクのガラスの嵌ったテーブル。
そこに一通の封筒が載っていた。
誰の仕業かなんて考えるだけ馬鹿らしい。
(限界だ――)
何が限界なのか自分でも解らないくせに、緒方はその『ちゃんへ』という文字を睨みつけながら、強くそう思った。