「腹が減ったな」
何気なく口に乗せた言葉は吐き出された瞬間に事実へと変わった。
決壊した堤防から水が押し寄せるように、食事に対する欲求が急激に水位を増す。
君、何か喰って帰るか?」
「…………どうしよう」





                              この空はまだ堕ちない





左の肩越しに少し遅れて自分の後を付いてくるを見やると、口元を両手で覆い僅かに眉を顰めている。
「……どうしましょう、初めて先生からデートに誘われてしまったわ」
芝居掛かった仕草に緒方はその目を冷たく細めた。
君、君、国語の成績悪いだろ?俺が云ったのは食事に行かないか、という主旨のことだったんだが」
「だからデートじゃないですか!」
「解った。君の国語の成績は1。そうだろ?」
「違いますよう、私国語の成績良いですよ、5以外取ったことないんですから」
かつんかつんという小気味いいリズムを刻みながらが付いてくる。
その音の出所に緒方はふと目をやった。
ポインテッドトゥにバックストラップ、それから10センチ近くはありそうなピンヒール。
道理でいつもより視線が近いはずだと、緒方は視線を戻し、棋院の自動ドアを潜った。顔見知りの警備員に軽く会釈して駐車場の方に脚を向ける。
ビルの背後に覗く空の色はまだ青みの方が勝っている。昨日の雨に埃が洗われた大気は澄み、抜けるようにどこまでも空は高い。
「何か喰いたいものはあるか?」
「ううん、それより、ねぇ先生」
「何だ?」
がすうと天を指す。
「アレ」
尖った肘、細い手首、白をベースにベージュで逆フレンチを施された爪を辿ったその先。

満月。

「せっかくだから歩きません?」
まだ青い空に浮かぶ丸い月は現実感が希薄だ。
けれど闇の中の白銀より、蒼の中の黄金より、何より蒼の中の白銀が一番美しいと思う。
昼と夜の境界線を破壊する侵略者のはずなのに、不思議と違和感も不愉快な感覚も涌かない。むしろ美しさへの憧憬さえ抱かせる。それにこの月にではない、何か別のものに対する理由の見えない小さな違和感ならさっきから胸に刺さっている。
緒方は脚を止め、しばらく空を仰いだ。
「…………そうだな。いいだろう、だが歩いていけるところにどこか店を知っているのか?マクドナルドは勘弁しろよ」
「マクドナルド?マックじゃなくてマクドナルド?」
「煩いな、何でも略せばいいってもんじゃないだろ」
緒方は歩き出した。
くすくす笑いながらもその後に続く。
「ちょっと歩きますけどこの先にありますから。芦原先生に教えて頂いたところですし、先生でも大丈夫な所じゃないかと」
「ケンタッキーとかモスバーガーとかミスタードーナツとかガキの溜まり場のようなとこじゃないなら俺はそれでいい」
「アハハ!ケンタもモスもミスドもダメですか!アハハ」
緒方の嫌味にが爆笑する。
大通り沿いに歩きながら、緒方の背後ではがまだくすくすと囀っている。
長々と一頻笑ってから、それでもまだどこか浮ついた声でが緒方に話し掛ける。
「ねえ、先生、先生の車の助手席、私専用にしてくださると嬉しいんですけど」
「生憎運転手のバイトをする気はない」
「もう!そういう意味じゃありませんよ!」
喉の奥で小さく笑いながら、ラークの箱を取り出す。緒方は箱を揺らして唇で器用に一本引き抜いた。
薄闇に灯る小さな炎。
「国語は得意なんだろう?解りやすい日本語を使ってくれ」
「好き、私先生がだーいすき」
「それはどうもありがとう」
「ほらあ!フツウに正直に云ったってどうせ取り合ってくれないくせに!」
煙と共に笑い声を漏らす。
半歩遅れて付いて来るの顔は見えない。だがきっとどうせ膨れっ面で自分の背中を睨んでいるに違いない。
「ねぇ先生あのね、あの、手、つないじゃダメ?」
「駄目だ。大人はそういう恥ずかしい真似はしない」
「……ちぇー」
その声音。
唇を尖らせた残念さと、それからそれとは別のニュアンス。
緒方は唐突に脚を止めた。
小さな刺。違和感の正体を突き止めた。
何故さっきから遅れて付いてくる?
「先生?」
君、そこでいい、そのガードレールにちょっと座れ」
「え?」
「いいから座れ」
きょとんとしながらもは云われた通りに白いガードレールに浅く腰掛けた。
緒方はの前に跪くと、その踝の良く目立つ足首に手を伸ばした。
「先…っちょっと待って!」
「やっぱりな」
意図を察したが指を外そうとしたが、緒方はそれを許さなかった。
引き抜かれた靴の下、染みひとつない白い甲とは対照的なその指の痛々しい赤さ。
緒方は靴を戻すと立ち上がった。
「その脚じゃ歩くのは無理だ」
そう云っての脇を通り過ぎ、タクシーを止める為に道路脇に立つ。
程なく空車は捕まった。











行き先を告げる緒方の横に乗り込みながら、は情けない気持で破裂しそうだった。
恥ずかしい。
緒方は何故こんな靴を履いていたのか咎めたりしなかった。
呆れるほど単純な動機。少しでも緒方につりあうように。それを知っているから緒方は訳を問うたりも責めたりもしない。
そうさせた自分が嫌いだ。
大人びた靴を履いたからって大人になんかなれないこと、知ってる。
でも、もしかしたらとは思う。
もしかして何かが変わるかもしれない。
ほんの僅かなきっかけになればそれで十分。
何時だっては必死だ。どんな些細な望みにも縋る。
閉ざされた緒方の心に侵入したい。
それだけの為に何だってする。


(だって――)
(だってあたしはそれしか知らない)
(塞がれても拒まれても)
(この身体と声を使って精一杯鳴くこと)
(それしかあたしは術を知らない)


口を開くと泣き言が飛び出しそうで、はじっと膝の上で握った拳を見つめていた。
だから緒方が「そこで止めてくれ」と云って車を止めた場所に降りてみて驚いた。
てっきりどこか食事をさせてくれる店に向かっているのだと思っていたのに。
「どうした?入るぞ」
金を払い終え続いて降りてきた緒方は、何故と訳が解らず店を見上げているの手を何の前触れもなく取った。
思いがけな過ぎて、酷く混乱して、もう訳が解らない。
それでも見開いた瞳の先、緩く繋がれた緒方の手は優しかったし、その歩みはさっきよりも全然ゆっくりになっていた。
向けられた広い背中に泣きそうになる。
あの台詞、手を繋いで歩きたかったのは本当。
でも脚も痛かったのも本当。
けどそれを告げることは出来なくて、だからせめて手を繋ぎたかった。そうすればきっと痛くたって気にはならないと思ったから。
絶頂の幸福が痛みなんて駆逐してくれる。
今この瞬間のように。
時々。
気紛れのようにこうして緒方はの望みを叶えてくれる。
だから苦しくなる。
苦しいぐらいに思いだけが募る。
ヒューズが飛んで、馬鹿みたいにたったひとつのことしか考えられなくなる。
もし今口を開いたのなら発されるのはたったひとつの言葉だけだろう。
緒方が店のドアを押し開け、先にを通した。
「靴を見せてくれ」
すぐにやって来た品の良い細身の中年男性に緒方が声を掛ける。店員が靴を取りに行く間に、慣れているのか緒方はの手を引いて隅の椅子に座らせた。
どう見てもアンティークの値の張りそうな椅子の上、麻痺した感覚の中ではゆっくりと店内を見回してみた。
椅子と同じく艶のある飴色の棚やチェストの上には様々な物がゆったりと展示されている。食器やランプ、羽ペンとインク、色とりどりのスカーフ、ワンピース、アクセサリ。
外から窺えた店構え同様、日本製とは思えない品の良い高そうな品物ばかり並んでいる。一人ならとてもじゃないが入る勇気がないような店だった。
「今日のお召し物でしたらこちらやこちらなど如何でしょう?」
「踵の高いものは駄目だ。歩きやすそうなものはないか」
「では少々お待ちください」
自分の目の前に積み上げられていく靴をは他人事のように見ていた。
店員が新たに持ってきた箱から、本体部分と同素材で作られた花の付いた黒いサンダルが取り出される。
「……いいな。踵もそれほど高くない。色はそれしかないのか?」
「黒の他には赤とピンクがございます」
「ピンクを」
「はい。あわせてご覧になりますか?」
「ああ」
「では失礼致します」
店員が恭しい手つきでの脚から靴を抜き取り、サンダルを履かせる。
綺麗な靴だった。
艶のある革はフューシャピンク、ヒールは黒。華奢でエレガントなラインにフラワーモチーフが一層華やかさ添える。
君、歩いてみろ」
「あ…はい」
云われた通りに歩いてみる。
魔法のように痛みが消えた。ヒールの高さはさっきまで履いていたものの半分以下。おまけにとても軽くて歩きやすい。
「大丈夫なようだな。これを貰おう。このまま履いていくから、履いていた方を包んでくれ」
「あの、あの先生、でも」
「いいから。君は黙ってろ」
に有無を云わせずにレジへと向かう途中、緒方はキャビネットの前でふと脚を止めた。そしてガラスの棚の上に指を伸ばす。
後ろに控えていた店員に何事か告げ、財布から抜き出したカードを渡すと緒方はの元へ戻ってきた。
「動くなよ」
それだけ云って、緒方がの髪に手を伸ばす。
は目を見開いた。
額を掠めた指の感触。けれどそんなことよりも。
煙草の匂い。それはの知っている緒方の匂い。
例えば僅かに身を捩ったら。
それだけで届きそうなところに緒方の唇が在った。
「……よし。もういいぞ」
それはほんの一瞬で、すぐに緒方は身を引いてしまった。
丁度目の前にあった鏡に映った自分の左耳の上。そこに血のように紅いラインストーンが飾られていた。
きっと緒方にとっては何でもないことだったのだ。
なのに、それは本当に一瞬だったはずなのに、の身体は酷く熱を帯びた。
くらくらする。苦しいほどに降り積もった望み。
幼かった頃には抱かなかった望み。


(この人を手に入れたい)
(好きと囁いて)
(あたしにだけ特別優しくして)
(それから)



(キスをしてその身体に触れたい)



純粋で貪欲な願いが胸に広がっていく。
やがて先程の店員がカードと明細、そして代わりにの靴を包んだ紙袋を持ってきた。
それらを受け取りながら、小さく笑って緒方は店員に何事かを囁いた。多くは聞き取れなかったが、『八重子』という名前だけは解った。店員は鷹揚に微笑み、心得ているとばかりに頷く。
店員に見送られて店を出ると、空にはもう完全な夜が訪れていた。
冬に比べれば透明感のある黒に白銀の球体が眩い。
「先生…ありがとう」
緒方は苦笑しただけで、それには言葉を返さなかった。
にはその苦笑の意味は解らない。
「歩くんだろう。行くぞ」
追及を逃れるように緒方が歩き出したから、もその後を追う。今度こそ隣に並んで歩くことが出来た。せめて身体だけでも横に並ぶことが出来た。
「先生、手つないじゃダメ?」
「調子に乗るな」
その言葉に笑いが零れた。拒まれたはずなのに心が浮き立つ。
そう。
何時だって自分はそれしか術を知らない。
打ち砕かれて傷付けられて、そして例え叶わなくても。
いつか空が堕ちることと同じぐらい可能性が低くとも、希うしかない。
は月を仰いで微笑んだ。





   そして願う。
   空が堕ちるように。