タクシーの運転手に釣はいらないと札を握らせ、緒方は車を飛び出した。 暗闇にぼうと浮かび上がるホテルの短い階段を一段抜かしで駆け上がる。ドアボーイとフロントが目を丸くしていたがそんなことはどうでも良かった。
貧乏臭いシャンデリアと不細工なオブジェを通り過ぎエレベータホールに突っ込む。全部上昇中だった。舌打ちをして緒方は身を翻した。
エレベータホールの横の階段を駆け上がる。革靴な上に乱暴な足取りだ。絨毯が敷いてなかったら明日の朝には苦情が殺到したことだろう。
5階に辿り着くと緒方は一度呼吸を整えるために停止した。運動と、それから移動中からすでに燻っていた苛立ちの為に心拍数が速い。
深く息を吐き出して緒方は歩き出した。
場所は解っている。昼にと対局した大ホール。この時間そこしか一般向けに解放してないはずだ。
ドアは開いていた。
ホールの一部分に不自然に人垣が出来ていた。それとは離れたところに三々五々居る人々も碁盤を前にしながら、顔は完全にそちらを向いてしまっている。
緒方は大股でその人垣に近付いた。
靴音か気配か、あるいはその両方か、取り巻いていた一人がふと後ろを振り向き緒方を認め、目を見開き、そして妙に後ろ暗い表情を作った。
つられたように横の一人も緒方を振り返り、同じ様に驚き、それからバツの悪そうな顔をした。
忌々しいと思いつつ、緒方はそいつらを完全に無視してより輪の中央に回りこんだ。やがてあの明るくノリのいい女とは思えないほど厳しい表情を浮かべた桜野の姿が目に入った。
「桜野君」
「ほ〜ら姉ちゃんどうしたどうした、さっきっから手が止まっとるで〜」
緒方の声と聴いたことのない男の声が重なった。
緒方の声に桜野が機敏に振り返る。泣くのではないかと思うほど一気に表情が緩んだ。
「緒方せんせぇ…」
「悪かったな」
緒方はたったそれだけを云った。
それだけ云って桜野を通り過ぎ、輪の中心、碁盤を挟んで男と向かい合っているの横に立った。
緒方は無言でを上から睨みつけた。
綺麗に結われていたはずのの髪は乱れていた。その脚に靴はない。来ていたジャケットも靴の横に脱ぎ捨てられている。
俯いているのと乱れた髪の所為で表情は見えない。
ただシャツの第三ボタンにかけられた手がぶるぶると小刻みに震えていた。
君、立て」
緒方は持っていたジャケットをの肩にばさりと広げると、返事も待たずに腕を掴み、強引にその席から引き摺り上げた。
「おいおい、ちょっと待てや、その姉ちゃんまだ脱いでないだろ?俺が勝ったらその姉ちゃんが脱ぐって云う約束なんだ、途中から来て勝負に水注すなや」
緒方は男を無視して、を桜野の方に押しやった。慌てて桜野がを抱き寄せ、緒方のジャケットでを守るように包んだ。
「おいおい、無視すんなや」
「俺が彼女の代わりに続きを打つ。そのかわり貴方が勝ったらこれを差し上げよう」
緒方はキーホルダを碁盤の横に置きつつ、が座っていた席に腰を下ろした。
「何や?」
「マツダのRX‐7のキーだ。売れば最低でも百五十万にはなる」
男の顔に驚きと喜びが広がる。
「小娘のストリップより価値が在ると思うがどうだ?」
緒方の台詞に男はニヤリと笑った。下品な笑顔だった。顔が赤く、酒を飲んでいるのが一目瞭然だった。
ゼミに参加している客には見えない。ゼミ客をカモりに来たチンピラ崩れといったところか。警備がなってないな、と頭の片隅で適当な誰かをなじる。
「いいだろう、アンタがそこまでして姉ちゃんの裸を晒したくないって気持に俺ァ、感激したよ」
「それはどうも」
「もう勝負は決まってるけどなぁ。やるの?」
「ああ」
「ひひっ、往生際悪いねぇ」
いくらか酒を飲んでいる。
頭が沸騰しそうなほど怒っている。
それなのにこうして碁盤を目の前にすると、血液中のアルコールもアドレナリンも全てが静まってくる。
緒方は左手でネクタイを緩めつつ、右手を碁石に突っ込んだ。
「面倒だからすぐに投了してくれると助かる」
一瞬緒方の台詞にきょとんとした顔をして、それからやっと意味を飲み込んで男は緒方を睨みつけた。
「その言葉すっかり全部熨斗つけてアンタに返すよ」
緒方は唇の端だけで笑った。
指を引き抜くとじゃっと石が鳴る。
脳髄を掻き乱すようないい音だ、と緒方は思った。







「もう十分だな?」
確認というより、それは宣言だった。
だから返事は期待していない。すでに緒方は椅子を鳴らして立ち上がっていた。
男は酔いが冷めた顔で顎を落として返事も出来ずに盤上を凝視している。
負けるはずのない勝負をひっくり返された男も、周囲を取り囲んでいただけで何もしなかった男の共犯者たちも、誰もが碁盤に見入っている。
けれど緒方はそんなことには興味がない。
振り返った先の桜野までも脅威の表情を浮かべていたが、そんなことさえどうだってよかった。
「桜野君、もう夜も遅い。係りの者にそろそろここを閉めるよう云っておいてくれ」
桜野がはっとしたように背筋を伸ばして「あ、うん、解ったわ」と返事をする。
緒方はひとつ頷いてからに視線を向けた。
桜野の横で相変わらず折れたように項垂れ、緒方のジャケットをきつく握りしめていた。
君、部屋に戻るぞ」
は動かない。緒方は溜息を吐いてその二の腕を乱暴に掴んだ。
君」
だがはそこに根が生えたように動かない。緒方は舌打ちすると、掴んだ腕を放した。
「え、緒方先生!?」
桜野が焦ったような声を出す。
緒方は身を屈めると、丁度腹の辺りが肩に乗るようを担ぎ上げた。
「すまんが後始末を頼む」
目を丸くしている桜野に口を挟む隙を与えず、緒方はさっさと歩き出した。
ホールを出て緒方はを肩に担いだまま階段を上る。ただエレベータホールより近かった所為かもしれないし、もしエレベータに誰か乗っていたら困ると考えた所為かもしれない。
どちらにしろこれ以上厄介ごとを大きくしたくなかったことだけは事実だ。
緒方は8階で廊下に出た。
803の前でを降ろす。はまた俯くだけで口を開こうとしない。
「鍵は?」
は首を振る。緒方は憚ることなく舌打ちをした。に対しての苛立ちが半分と、ホールを出るときにそこまで気が回らなかった自分の迂闊さに対してが半分。
のジャケットか桜野が持っているだろう鍵を取りにホールに戻る。そんなのは紛れもなく却下だ。
緒方は苛立ちを殺すために細く息を吐き出した。それでほんの僅かばかし心が安らぐ。
「俺の部屋に来るか?」




緒方はの羽織っているジャケットに無遠慮に手を突っ込むと鍵を取り出した。
「入れ」
先に中に入り、電気を点ける。
は今度は大人しく自分の足で階段を上がり、緒方にあてがわれた部屋まで付いて来た。そのくせどういうつもりか上がり框から先に入って来ようとしない。
整合性もなければ合理的でもないその行動に苛立ちが募る。
緒方は荒々しい足取りで踵を返すと、乱暴にを部屋に引き摺りあげた。端からの脚に靴はない。
力任せに引っ張った所為での身体がよろめいて倒れそうになる。そのか弱さまでが今は忌々しくて、緒方はついに声を荒げた。
「いい加減にしろ!お前は何をやってるんだ?桜野君が連絡をくれなかったらどうするつもりだった!?無様に素人にやられた挙句ストリップか?冗談じゃない、今すぐ棋院を辞めろ、いい面汚しだ!」
「…………せ、…に……」
やっとが口を開く。だが聴き辛い声だった。
訊き返すよりも早くの肩から緒方のジャケットが落ちた。が拳を振り上げた所為だ。小さな拳がどん、と緒方の胸を打った。
「先生なんかあの女とどっか行っちゃったくせに!」
悲鳴のような声。
漸く上げた顔は既に泣き顔だった。
溜め込んで我慢していたものが弾けた、緒方はそう思った。
『爆発』という単語が脳裏に過ぎる。
そう、まさに爆発だった。
「先生のバカ!あたしが先生のこと好きなこと知ってるくせに!それなのにどうしてあたしの目の前であんな女の人とどっかに行っちゃうのよ!?」
涙を零しながらは緒方を怒鳴りつける。
緒方はある意味を見縊っていた。
さっきの重田との対面の時のように、は時に恐ろしく聡い子どもであり、大人たちが何か云うよりも早く求められる役割を果たすことがあった。だからをホテルに置き去りにしたことに対しても、どこかなら納得するだろうという勝手な期待があった。
けれどが今口にする台詞の内容は全く子どもの理屈だ。
そんなもの緒方の自由だ。緒方が誰と何所に行こうが緒方が誰と寝ようが、そんなものは緒方の自由でありが口を挟める領分ではない。
それすらも解らないほどは追い詰められて混乱して、そして結果爆発したのだ。
自暴自棄になって、桜野の制止を振り切りあんな男と馬鹿な賭けをした。大人の女なら緒方が助けに来てくれるだろうというずるい計算をしたかもしれないが、はそんなことまで気が回っていなかったに違いない。この様を見ればそれが良く解った。
酷く残酷なことをしてしまった気分になる。
が泣きながら、緒方の胸を殴る。
けれど殴るたびに段々その勢いは弱まっていく。
「ヒドイよ、先生、酷いよ、大っ嫌い、先生なんてだいっきらい……」
ついにの左の拳はただ緒方の胸を撫でただけで、あっけなく落下していった。は右手で顔を覆うと声を殺して泣き始めた。
堰を切ったように溢れ出した涙が指の隙間を滑り落ち、畳に当たっては砕け散っていく。
の綺麗に整えられた髪は乱れ、シャツのボタンは3つ目まで外れ下着が覗いている。惨めな姿だった。
だがその惨めな姿は憐憫の情とは別の感情も湧きあがらせた。
誘惑に負けたように緒方は手を伸ばす。
「悪かった」
頬に触れるとの全身が拒むようにびくりと震えた。
「悪かったな」
もう一度噛んで含めるように告げると、殺したはずのの嗚咽が大きくなった。涙で濡れた両手でが緒方の手を包む。
「先生が好き」
「悪かった」
「好き、先生が好き」
「もうないように気をつける」
「先生が好き」
「泣き止め」
噛みあわない会話を責めるように、哀しげに瞬きしたの瞳から大粒の涙が零れた。
緒方の右手を壊れ物を抱くように両手で包み、は自分の唇に運んだ。
「先生が、好き…」
泣き疲れて枯れた声で囁くと、は緒方の磨り減った爪にくちづけた。
それは痺れるほど艶やかな光景だった。
蝶子に比べればは女として甚だ未発達で、これまでだって一度たりとも色気を感じたことなどなかったのに。
それなのに泣きながら一心不乱に男の爪に唇を寄せる少女の姿は酷く艶かしい。
今まで緒方が目にしてきた女の媚態など全てまやかしだったように思えるほど、扇情的でさえあった。
緒方は言葉も忘れ、捕われた手を取り返すことさえ思いつかず、しばらくの行為に見蕩れていた。















「ぃいぃやぁぁぁーーー!!」
車内にの絶叫が響き渡る。
「死ぬー!死んじゃう!!」
緒方は眉を顰めて、ステレオのボリュームをさらに上げた。軽快なリズムがより強烈に身体を叩く。普段ならここまでボリュームを上げることはない。今日は特別だ。そもそも機嫌が悪いのと、が煩い所為だ。
「今何キロですかってひゃくよんじゅっきろぉ!?いやあ死んじゃう、いやあっ、先生とちゅうもしてないのにまだ死ねなーい!」
「安心しろ。その理屈で云ったら、俺は君と一生キスするつもりはないから君は死んでも生きてるよ」
うんざりして緒方はアクセルを踏んだ。
猛スピードで接近してきたRX-7に前を走っていたベンツが道を譲ってくれる。百五十キロオーバーのメーターにが半泣きの表情を作る。
ちなみに緒方が昨日東京・名古屋間を3時間で移動したというのも、常時第一車線で平均時速百六十キロの賜物だ。
「せんせぇ…、せめてこの曲止めましょう?何か、この曲余計スピードだしたくなるというか……」
「ドナルド・フェーゲンだ。嫌いか?」
「いや、嫌いとかそうじゃなくってですね、こう、曲にあわせてぶーんとかっ飛ばしたくなるとゆーか要するに危ないと思うんですよ、アクセル踏んどけーみたいなぁぁぁぁ」
カーブに差し掛かっての声が不自然に伸びる。
「それは別に曲の所為じゃない。俺は高速に乗った時はいつもこうだ」
「もっといやぁぁっっ」
助手席のがより身を竦ませる。
緒方はその様に小さく笑った。
ステレオに掻き消され、きっとにはその声は届いていない。
朝一で東京に戻る予定だった緒方と違い、は朝の講座も手伝ってそれから夕方に芦原たちと電車で帰るはずだった。けれど緒方はをひとり残して帰ることが出来ず、客への影響がどうのと理由をつけて車に乗せて帰ることを責任者に了解させた。
棋院に帰ればきっとの行動は問題になる。緒方は既に自分がその泥を被る覚悟を決めていた。
だが
鍵を掛けた。
緒方はあえてその行動の源泉となる動機を恣意的に封じ込めた。

今はまだ見えない振りをする為に。


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