『歓迎
日本棋院 囲碁ゼミナール 御一行様』

左手にはスーツの上着、右手には中身の軽そうなブランド物の旅行鞄。
歓迎という文字に何となく白々しい思いを抱きつつ、緒方はホテルの玄関を潜った。
「先生」
自動ドアが開いた途端、最早耳に馴染んでしまった声が飛び込んできた。






          ≪03 es≫






関係者と思しきスーツの群れ以外にも大勢の人間で溢れたロビー。
混み合う人込みの中を反時計回りに視線を流していき、程なく緒方は真っ直ぐに自分に向かってきている人物にその目を止めた。
黒いスーツと、同じく黒いアンクルストラップのヒールの靴。教科書通りのような遊びの無いスーツ姿だった。ロビーに敷かれた絨毯のおかげで踵を小煩く鳴らすこともなく緒方に辿り着くと、はバレリーナのようにくるりとひとつ回って見せた。
「どう?先生、見違えた?大人っぽい?」
「そうだな。小学生には見えない」
「うわあ先生それもしかして誉めてないでしょ?」
がさして残念そうでもなく、軽く笑う。
「何故君が?」
人波を泳ぐ魚のように緒方はロビーから歩き出した。
カルガモの雛のようにがその後に続く。
「先生のお迎えに来たに決まってますよー。先生、一回お荷物置かれにお部屋に行くでしょ?先生のお部屋は芦原先生と同室です。芦原先生は会場の方で打ち合わせなさってます、だから私が鍵を預かってきたんです。先生を無事お部屋までご案内することが私に課せられた使命でーす」
「それはご苦労」
たいした細工ではないシャンデリアと価値の判然としないの身長ほどもある巨大なオブジェ。それらの横を通り過ぎながら緒方は気持の篭ってない返事を返す。
人気のないエレベータの前まで来ると、がお菓子をねだる子どもように緒方のワイシャツの袖を掴んで揺す振った。
「ねえねえ先生、真面目に答えてくださいよ、どうです私?」
「その髪はどうなってるんだ?ずいぶん器用なもんだな」
「これは私がやったんじゃなくて桜野しゃんにやってもらったんです、昨日もやってもらったんですけど、ほんと上手いんですよ〜ってそうじゃなくて〜先生他には他には〜?」
「いつもの姿がカナリヤだとしたら今日は鴉だな」
「だーかーらー。先生それやっぱり誉めてないでしょ?」
緒方は喉の奥で笑いながら、開いたドアを押えた。を乗り込ませてから自分も後に続く。が押したのは9階だった。
「東京から名古屋まで車だとどれくらいかかりました?」
「約3時間」
「えっ!?早くないですか、それ?」
「そうか?」
「あ、この階です、そうですよ、早いですよ、多分、絶対」
「多分と絶対を同時に使うな。矛盾してる」
「先生たちのお部屋は906です。私と桜野先生の部屋はその下の803。先生、ごめんなさい、夜にこっそり私のとこに会いに来てくださっても、桜野先生がいらっしゃるからお部屋に上げることは出来ないの」
「面白い冗談だな」
「先生ってどうしてこう、リアクションが薄いのかしら?」
がつまらなそうに唇を尖らせながら、スーツのポケットから取り出した鍵で906号室を開錠した。
「あれ?」
重量のあるドアを肩で押し開けたが一瞬動きを止める。
「どうした?」
緒方はその脇に身体を滑り込ませ、靴を脱いで畳を踏んだ。とりあえずぐるりと部屋を見回してみる。
十畳と六畳の二間続きだ。程好く黄金色に近付いた畳、床の間にはやはり価値のあやふやな掛け軸がかけてある。それから茶具一式の載った卓上の横には碁盤と碁石。
緒方は良くも悪くもない、という印象を持った。
「うわーなんで和室なんですか?私たちの部屋、フツーに洋室ですよ」
緒方と自分の靴を揃え終えたが部屋の中を物珍しげに眺める。緒方はたいして荷物の入っていない鞄を適当に壁際に置くと、木製の座椅子に腰を下ろした。きょろきょろしつつは緒方が横に放り出した上着を拾い上げ、ハンガーにかけた。
「上手の方の部屋には大抵碁盤を置いておいてくれる。だからだろ」
がふうんと不思議そうに首を傾げつつ、畳に膝をつく。
「先生、お茶飲まれますか?」
「ああ…もっとも俺はこんな仕事で部屋に碁盤なんかいらないがな。むしろ低段者の方に置いてやればいいものを」
そう云いつつ、ガラス製の灰皿を引き寄せる。
ジッポーの蓋をかきん、と音を立てて元に戻しながら、緒方は意地の悪い笑みを浮かべた。
「なんなら今一局打ってやろうか?」
「いーりーまーせーんー」
が急須を傾けながら、べぇっと紅い舌を出す。
行儀悪く立てた片膝に肘を突いた姿で煙を吐き、「ガキ臭いぞ」と緒方は小馬鹿にしたように唇を曲げた。
「クソ度胸だな。こっちは気を利かせて云ってやってるのに」
「だーかーらー。敵に施してもらった塩なんて死んでも口にしたくあーりーまーせーんー。はい、どうぞ」
茶碗を緒方の方に押しやるように滑らせつつ、が眉間に皺を寄せ頬を脹らませる。
「ふゥん、じゃあ遠慮なく叩き潰させてもらおう」
「ふんだ、やれるものならどうぞ」
立ち膝で腰に手を当てがふんぞり返ってみせる。
日本棋院が主催する囲碁ゼミナール。
平たく云えば、二泊三日でプロ棋士十人に対してアマ百人ほどが集まってひたすら囲碁三昧で過ごすという企画だ。
二日目の今日、午後から緒方との対局が予定されている。
「その調子だ。負けて泣きべそでもかかれたら俺が悪者扱いだからな」
「どうせ先生、誰に何云われたって気にしないくせに」
「よく解ってるじゃないか」
緒方が笑うと「今に刺されますよ」とじろりと横目で睨む。
笑いを収めると緒方は二本目の煙草を取り出した。
「あ」
かきん、と音を立てたジッポーにが瞳を細める。
「ちゃんと使ってくれてるんですね」
「ああ、これか」
緒方は手の中の重みのある銀色が印象的なジッポーに視線を落とした。
よく見る通常のジッポーより縦に長いスリムタイプで、ボトム部に≪Sterling Silver≫と刻まれた銀製だ。先日ご馳走するはずが、まんまとご馳走されてしまったがお礼にと持ってきたものがこのジッポーだった。
銀製のジッポーは高い。せっかく貰った取材料とやらも丸々消えてしまったに違いない。それがまるっきりの義理堅さと生真面目さを物語っているようで、緒方は何も云わずに苦笑交じりにジッポーを受け取った。
「丁度100円ライターが切れた」
「うわあ先生最低!鬼!悪魔!」
の方に流れないよう、自分の横に煙を吐き出しながらてのひらの中のジッポーを弄ぶ。
緒方は半分意識的に話題を変えた。
「昨日はご苦労だったな。初めてにしちゃ評判良かったって芦原が云ってた」
都合で二日目だけの参加となった緒方と違い、や芦原は昨日からここに泊り込みだ。はこの手の仕事は初めてだったが、芦原の話だと客の受けもよく、評判も良かったということだった。もっとも、オッサンばかりの会場で若い上に容姿の優れたが嫌われるわけもないと緒方は思うのだが。
「え?電話なさったんですか?もしかして私の様子を聞くために?」
「そんな下らないことで電話するわけないだろう。今日のことで確認しときたいことがあったからだ」
がちぇーと唇を尖らせる。
左手首に視線を落とし、緒方は灰皿で火を揉み消した。
「そろそろ会場に行こう」
緒方が立ち上がるとも立ち上がり、かけてあった上着を外した。緒方の背後で背広を纏うのを手伝いながら、がふと押入れの方を見た。
「先生、夜にお布団敷きに来ましょうか?」
「いや、いい。ホテルの人間が適当な時間を見計らってやってくれるはずだ」
「はーい。先生、お家じゃベッドですか?布団って嫌じゃありません?私、ちっちゃい頃からずっとベッドだから、横を向いてすぐ床っていうのが落ち着かないんですよね。だから修学旅行とかで布団で寝なきゃならない時嫌で嫌で」
「たまには布団もいいぞ。落下の危険を考えず色々楽しめるからな」
入ったときと同じ様に、重い扉を肩で押し開けようとしていたの動きが中途半端なところでぴたりと止まる。
一瞬間を取って、それから眉間に皺を寄せた顔でゆっくりと緒方の顔を振り仰いだ。
「…………なんか微妙にセクハラ発言された気がするんですけど」





『あ、緒方先生、おはようございます』
会場に入ってすぐに芦原が声を掛けてきた。ただし壇上からマイクで。
「おはよう」
緒方は表情を変えることなく、到底離れた芦原に聞こえるとは思えない普段と変わらぬ声量で返事を返した。
芦原の余計なマイクパフォーマンスのおかげで、緒方は壇上までの数十メートルの間に設営をしていた関係者から必要以上に挨拶を貰う羽目に陥った。
やっと壇上の下に辿り着くと、芦原も降りてきて全く悪気のない笑顔で再度「おはようございます」と繰り返した。
「道、どうでした?混んでました?」
「いや、そうでもない」
「あらあ」
芦原と共に対局の解説をすることになっている女性棋士の桜野も壇上から降りてきたのだが、降りてくるなりの背後を覗き込んで妙な声を上げた。
「え?え?何ですか?」
虫でもついていると思ったのか、がおどおどと背中や肩を払う仕草をする。
「頭崩れてないわねー。私、ちょっとでも横になったりしたら一発で解るよう、わざとゆるーく結っといたのに」
「やだなー、もうすぐ対局なのにお昼寝なんかしませんよう」
「そんなの上に乗せれば問題ないだろうが」
「は?………………………あーっっちょっ、やっ、緒方先生も桜野しゃんも何云ってんですかぁッ!対局前にー!」
真っ赤になって「そんなことしてませんからね!」と必死で弁明するを芦原も桜野も笑いを噛み殺して眺めている。要するに二人ともをからかっているのだ。
「もう、先生何なんですかさっきっから!セクハラで訴えますよ、桜野しゃん、聞いてくださいよさっき緒方先生ったらねー」
「俺がセクハラならこの前君が車の中で俺にしたことはどうなんだ?」
「え?ちゃんが緒方先生に何かしたんですか?」
「きゃー聴きたいわぁー」
「ぎゃあああダメぇぇぇ!!先生云っちゃダメェェェッ!!」
これ以上は無理なほど頬を朱に染めて、が自分より高い所にある緒方の口を必死で塞ごうと手を伸ばす。
芦原も桜野も最早隠そうともせずに、声を立てて笑っている。
「何だ、じゃあ訴えないのか?」
「ああもう先生、ほんとに性格悪い!インケンだよね、やり方が!」
ふくれたがぷいっと顔を背ける。
面と向かって緒方をこうも罵る人間も珍しい。
芦原と桜野だけでなく、周囲の人間もくすくすと二人のやりとりを耳にして笑っている。
おそらく周りの誰もが思うに違いない。
緒方はを『可愛がっている』と。
何故ならそういう風に緒方が仕向けているからだ。
「食事に行ったんだって」と訊かれればイエスと答え、「まさかとは思うけど惚れてるの?」と問われればノーと答える。事実は公表し、誤解は正し、誰の前でも緒方は態度を変えないで平然とを纏わり付かせた。
緒方はそうやって遠ざけないことで逆に邪まな下心の存在を否定した。
「バカだな、君は。今更気が付いたのか?」
「自分でゆわないでくださいっ」
ぷりぷり怒っている姿さえ年長者から見れば微笑ましいもので、皆幼子を甘やかすような表情でを見ている。
多分、どこに行ってもこの子は可愛がられることだろう。
緒方はそう思い、眼鏡の奥の瞳を細めた。







「まったく……もうお前らと仕事するのは懲り懲りだ」
緒方との対局は恙無く終わった。
ただ双方と気心が知れている気安さから芦原が余計なことまで喋り、さらに桜野もそれを冗長させるようなことを云い、もやけに活き活きとした顔で参戦する。
結果緒方も黙っているわけに行かず、無駄に笑いを取るような妙な解説になってしまった。
挙句に夕食の席では無理矢理マイクを握らされ、ディナーショウでもあるまいし『碁との出会い』などと青臭い話を語らされた緒方の機嫌は現在とても素敵なものになっている。
「もう二度としません!」
「二度と在って堪るか」
ネクタイの結び目に指を突っ込みながら吐き捨てると、が懇願するように胸の前で両手を組み合わせる。芦原の方は悪びれる様子もなく、「お客さんにはウケたんだからいいじゃないですか」とぬけぬけと吐かす。
「あーん先生機嫌直して!」
歩きながら手を伸ばして、が緒方の肩を揉んでみせる。歩きづらい上に全然見当違いのところを揉んでいて気持ちよくも何ともない。
時刻はすでに9時を回っていた。
ついさっきミーティングも終わったし、後は漸く自由時間となる。
参加者たちが自由に碁を打てるように大ホールはまだ解放されているが、さすがに廊下には昼間のような活気はない。そうやって人が居ないのを良いことにが緒方の首に腕を絡めようとする。反対に緒方はそれを阻止する。
「止めろ君、歩きづらい」
「じゃあじゃあ、先生、許してくれる?」
「それとこれとは別だ」
「うわーん、先生どうしたら許してくれるですか?私、なんでもします」
「女が軽々しく『何でもする』なんて口にするな」
そこで緒方は軽口を止めた。
エレベータホールの脇にちょっとしたスペースが設けられていた。そのソファに見知った顔を発見したからだ。
背後から執拗に緒方の肩に手を回していたも絨毯に靴先をめり込ませつつ、どうにか緒方の背中に衝突することなく立ち止まることに成功した。
緒方はさりげなくの手を肩から取り除いた。今度はも抵抗しない。むしろ自分からするりと手を下げた。
「緒方先生、今日はご苦労様でしたな」
ソファから億劫そうに立ち上がり、恰幅がいいというよりは少々腹がたるんだ印象の中年の男が緒方に声をかける。それに追従するように男を挟むようにしていた2名も同じ台詞を吐く。
クローンのようだと、頭の片隅で思う。
「いいえ、重田先生こそ腕を上げましたね」
見え見えの世辞をさらりと口にしてやると、それでも重田は嬉しそうに腹を揺らした。
「いやいや先生のご指導の賜物ですよ。先生に見て頂くと毎回二目三目は強くなって帰れる」
「私は重田先生の才能を引き出すお手伝いをさせて頂いてるだけです。全て重田先生の才能ですよ」
歯の浮くような台詞だ。
重田は地元の名士だ。このゼミナールの某スポンサーの大株主であり、つまり棋院が気を使わざるを得ない人物でもある。
下手の横好きというか碁の腕はたいしたことない。だが、3年前のゼミナールで碁を見てやってからどういう訳か緒方を気に入り、東京を訪れた際も緒方をホテルに呼びつけ指導碁を打たせるほどだ。
今回緒方は東京で仕事があり、当初この仕事は受けない予定だった。だが一日でいい、頼むから行ってくれとこのゼミを企画運営している顔見知りに泣き付かれた。はっきりと名前は出さなかったが、十中八苦この重田の差し金に違いない。
「ハハハッ、緒方先生は口も達者でいらっしゃる。ああ、ええと芦原君だったかな、君もご苦労さんだったね」
「苦労だなんてとんでもないですよ。こういう席で重田先生のような熱心な方に接するとうかうかしてられないと気が引き締まりますよ」
さっきっから横に居た芦原に今気が付いたと云わんばかりの態度で声をかける。長者番付に常連になるにはこのぐらいツラの皮が分厚くないと駄目なんだろう、と緒方は胸の奥底で皮肉げに笑った。三流以下の茶番に無性に煙草の味が恋しくなる。
「ハハハ、君も上手いなぁ、最近棋院じゃ世辞の使い方までやってるんじゃなかろうね。そっちのお嬢さんは?……ああ、今日の午後一で緒方先生と打った子かな、ええと確か…」
と申します」
緒方の背中から出て、がすっと頭を下げた。
「ああ、そうだったね、さんだったね、中々面白かったよ、あの勝負は」
が「ありがとうございます」とにっこりと笑う。
何も説明はしていないが、重田がどういう人物か悟ってくれたのだろう。ここで何か失礼があっては、個人の問題で済まなくなる。問答無用に棋院も巻き込んで面倒なことになるから、その賢しさがありがたい。
「ところで先生、一席ご用意しとるんですがこの後お時間ありますか?」
「いえ、どうぞお構いなく。そんな気を使って頂かなくて結構ですよ」
「いやあそれがねぇ、せがまれましてねぇ」
「は?」
重田が意味ありげに笑った。ちらりと視線を後方に投げると、それが合図だったように柱の影からひらりと鮮やかな赤と黒が踊った。
「緒方セーンセ」
赤と黒が強烈なコントラストを奏でるワンピース。
その服に負けない派手な顔立ちに完璧な化粧を施し、媚びと自信を含んだ真っ赤な唇で微笑む女。全身から匂いたっているような香水よりもさらに甘ったるい声を出して、軽やかな足取りのまま緒方の胸に凭れかかった。
「ハハハッ!この子がどうしても先生に会いたいと云うもんだから」
重田の連れらしいが故に胸が悪くなりそうな匂いに突き飛ばしたいのを我慢している緒方をどう解釈したのか、自分の豪快さをアピールしたいのだとしか思えない声量で重田が笑う。長々と一頻笑ってからやっと「蝶子君、離れたまえ、先生がお困りだよ」と女に声を掛けた。
「いやぁん。だぁーってものすぅごーく久しぶりなんですもん。また来てくださるって云ったのに、一回も来てくれないし。先生、私、解る?名前当てて」
「『蝶子』だろう。覚えてるよ」
嘘だ。
さっき重田がそう呼んだ。
だがどこかで見た気がしないでもない。女の云うことが真実で、さらに重田絡みならどうせ前に名古屋に来た時重田に連れて行かれた店のホステスだろう。
「蝶子、嬉しー」などととわざとらしいくらいはしゃいだ声を上げ、緒方の背に腕を回してそれなりに豊な胸を擦り付けてくる。
「ははは、ここじゃなんですから移動しましょう。変な写真でも取られたら大変ですからな、おい、車をまわせ」
緒方の返事も待たずに、重田は脇の男たちに指示を出していく。
無礼にならない程度に強い力で蝶子を身体から引き剥がしつつ、緒方は内心の苛立ちが顔に出ないよう眉の辺りに力を込めた。
明らかに逃げ道は徐々に狭められていっている。ここで頑なに固辞すれば重田の顔を潰すことになる。日本社会では未だにインフォーマルなパワーが幅を利かせている。例え営利企業でなくとも、棋院が組織である限りその種のパワーから抜け出すことは出来ない。嫌な話だが、ここで重田に付き合うことも『仕事』の内のひとつとも云えた。
「芦原君も遠慮なさらず。さ、行きましょうか、緒方先生」
笑顔で重田が振り返る。機械的な動きで腰巾着の片割れがエレベータの下降ボタンを押す。
既に断れる段階はとっくに通り過ぎている。
「ね、行きましょ、せ、ん、せ」
拒まれたことにめげた様子もなく、蝶子はするりと身を入れ替え、緒方の左腕に身体を絡ませる。
緒方は蝶子を引き剥がすのを諦めた。
多分、この女には日本語は通じない。
不味い酒になりそうだ。
「先生……」
溜息を我慢する緒方の右手の小指と薬指。
背後に居たが遠慮がちにそっとその指を握ってきた。
振り返って緒方は理由もなく後悔した。
は何か云おうとして、けれど結局薄く開いた口を噤んだ。
酷く複雑な表情をしている。嫉妬と抑制、怒りと嘆き、何よりは緒方に行かないでくれと全身で必死に訴えている。
背後でエレベータの到着を知らせる音が鳴った。
「……君、君はもう自由時間だから指導碁を頼まれても断っていい。女の子なんだからうろうろせずに早く部屋で休め。解ったな?」
「ほら、先生早くぅ、重田先生がお待ちだわ」
緒方は綺麗に結い上げた髪が崩れないよう、の額の生え際の辺りを軽く撫でてから踵を返した。その際、わざとの目を見なかった。きっと潤んだ瞳は傷付いた色をしている。
こうやってエレベータのドアが閉まって降下が始まっても、はきっとあの場に立ち尽くしてるに違いない。
見てもいないくせに緒方の胸には苦い確信があった。







座り心地の良いソファ。極力落とされた照明。適度なクラシックレコードの音。漣のような女たちの笑い声。そして惜しげもなく開けられたドンペリ。
無表情でグラスを口元に運びつつ、緒方は冷めた視線で店内を観察していた。要するに早くも飽きて、それぐらいしか娯楽がなかったのだ。
照明と天井から吊るされたシルクのおかげで向こうの客の姿はおぼろげにも見えない。席との間も十分すぎるほど十分に取られており、案内されていく人物の顔を識別することさえ難しい。その徹底振りが、まったくこのクラブの客層がどれほどのものか如実に物語っている。
緒方の左隣には蝶子が座っている。その蝶子の隣には反対側にもホステスを侍らせた重田の姿がある。さっきっから本人は面白いと思っている自慢話をジョーク仕立てに話しては一人で悦に入っている。どうやら自分では豪快な人柄を気取っているつもりらしい。
蝶子も脇のホステスもプロ根性を見せ、良いタイミングで合いの手を入れ、時には驚嘆の表情を作り、最後には羨ましそうな仕草で重田の功績を誉めそやす。流石に高級クラブのホステスだけあって、見かけだけではなくそうした客の虚栄心を満たす術も心得ている。
形式的には緒方への接待だし金を払うのも重田なのだが、こういう力関係での席ではありがちなように精神的に接待をしているのは緒方たちの方だった。
「重田先生は色々な武勇伝をお持ちですねぇ。全部聴いてたら一晩じゃ終わりそうもないなあ」
芦原がにこにこしながら重田を持ち上げる。
一見して坊ちゃん育ちで頼りなさげだが、芦原はこれで結構押えるべきポイントは押える男だ。半円状のソファで丁度重田の正面に当たる芦原が聞き役に徹してくれたおかげで、緒方は面倒な追従を殆どサボることが出来た。今度機会があったら奢ってやろう、と思う。
「あ、先生、ちょっと失礼します」
芦原が席を中座した。芦原に付いていたホステスも案内の為に席を立つ。砕けた様子でホステスに笑いかけながら芦原の背は遠ざかっていく。
「いやあ、緒方先生、芦原君は今時の若者にしては礼儀正しくて気持の良い青年ですなぁ。さすが先生の後輩だ」
「いえ、私ではなく塔矢先生の人徳の賜物ですよ。私は自分のことで精一杯であれの面倒をみた記憶もない」
「ハハハ、またご謙遜を!」
重田は大分酒が回っているようだ。
緒方はシャツの胸から煙草の箱を取り出すと、一本口に咥えた。
蝶子が流れるような動作でライターに火を点ける。緒方は差し出されたそれを掌を上げることで固辞すると、自らのジッポーで煙草に火を点した。
煙を吐き出した後も緒方は何となく消さずにその炎を眺めた。
蓋を閉じない限りジッポーの炎は燃え続ける。
酷くシンボリックだ。
の火を消せるのはではない。

緒方だけだ。

「ねぇ、緒方センセェ…」
緒方は蓋を降ろした。独特の質量を持った炎はあっけなく消える。
蝶子が緒方の太腿に手を這わせる。反対側のホステスと話し込んでいる重田の目を盗むように緒方に身を寄せてきた。
慣れたはずの香水の匂いに眉を顰めたいのを堪える。
とんでもない秘密を打ち明けるのが楽しくて仕方ないといった風に、蝶子は猫のように瞳を細めて囁く。その間も相変わらず蝶子の手は太腿を行ったり来たりしてる。
「ねぇ……先生、あたしね、今日重田先生にお店が終わった後に緒方先生のお部屋に行ってもいいって云われてるの……」
馬鹿か。
そう云いたいのをどうにか飲み込む。
この女と寝ることで要らん首輪を着けられるなんて死んでもごめんだ。
瞳を眇めると緒方は執拗に蠢く蝶子の手を掴んだ。
「緒方先生!」
だが口を開くより早く、携帯を手にした芦原が妙に慌て様子で戻って来たから緒方は蝶子の手を邪険に投げ捨てるだけに止めた。
「緒方先生!」
声を抑えているが、口調は真剣で切羽詰ったものを感じさせる。緒方の胸に嫌なものが飛来した。
そしてその予感は的中する。
芦原は緒方の予想通りの言葉を口にした。
ちゃんが……」