まるで軽蔑しているような表情だと思った。

鏡に映った自分の顔は見下すみたいに瞳を細めて、傲慢な角度に顎を傾けていた。その頬の上ではカミソリの刃が無駄のない動きでシェービングフォームを刈り取っていく。その間にもシャワーを浴びたばかりの濡れた髪の先から雫が零れて、その裸の胸や肩を伝い落ちている。
ヒゲを剃るというルーティンワークをこなしているだけのはずなのに、だとしたら一体毎朝何を軽蔑しているのか。
剃り終わり、洗面ボウルの上で刃にたまった泡を振り払うと裸の上半身にまで飛んできた。ズボンに跳ばなかっただけマシなのかもしれないが、それでも嫌そうな顔で臍の横の泡を指で拭う。
冷水で肌に纏わりつくシェービングフォームの残滓を洗い流す。洗面台から顔を上げると緒方は煙草に手を伸ばした。
この家の至るところに煙草と灰皿は存在する。
火を吐けて煙を深く吸い込む。洗面台に片手を付いて背中を丸め、それを何度か繰り返して漸く緒方は全身に神経が行き届くのを感じた。
一際大きな雫が顎から滴り落ちて床で弾ける。それでやっと緒方はタオルに手を伸ばし、乱雑に顔を拭った。再び煙草を口元に運んで、ふとその先端の灰が短くなっていることに気が付く。ボウルに目を落とすと砕けた灰が汚していた。同居人がこれを見たら怒りそうだ。
緒方は無言でカランを捻る。
灰は呆気なく痕跡を失っていく。こんなことしたのがばれたらもっと同居人は怒ることだろう。
跡形もなくなると水を止め、緒方は寝室へと脚を向けた。
音もなく裸足のままクローゼットへとさらに脚を伸ばす。
ブラインドの隙間を縫って進入してきた陽光がフローリングの上でまるで水面のようにゆらゆらと揺れていた。
不安定で透明なその光の粒子だけでもある程度の視界は確保できる。しかし、かといって明かりも点けずブラインドも開けずではクローゼットの中までは見通すことは困難のはずだ。
それにもかかわらず咥え煙草の緒方がそんな頼りない光源のみでクローゼットを漁り始めたのは、おそらくは部屋のもう一人の住人への配慮からだろう。
黙々とシャツを物色していると、ハンガー同士がぶつかってカチカチとプラスチックな音を立てた。煙草が無かったらさも舌打ちしたそうに眉間に皺を寄せ、緒方は一旦その手を停止させる。
今度はゆっくりとハンガーを滑らしたが、生憎少しばかり遅かったようだ。
「……先生…」
覚醒しきっていない、ぼんやりとした声。シャワーを浴びたばかりの裸の肩甲骨の辺りに真後ろのベッドからの視線を感じる。
短く息を吐くと緒方は振り返った。
唇から指へと煙草を移動させつつ大股で歩み寄る。ベッドに腰を下ろす前に緒方は一度サイドテーブルの灰皿で灰を払い落とした。
「起こしたか?」
そう問うとは横を向いていた身体をごろりと仰向けに転がす。ブラインドから忍び込む細い光が絶妙にその唇に架かって、緒方は思わずその目を細めた。
「ううん、大丈夫。もう起きなくちゃ…一緒に起こしてくれればよかったのに」
そう口にしたくせに、はゆっくりと瞬きを繰り返すばかりで起き上がる気配はない。短くなった煙草を灰皿で揉み消しながら緒方は苦笑した。
「今適当に喰うもの買ってくるからもう少し寝てろ」
「外に行くの…?」
立ち上がり去っていく背中を惜しむようにそんな台詞が追い縋る。
こういう些細な瞬間に変に寂しがるの癖は一向に直らない。最もそれは誰よりを甘やかしている緒方の所為でもあるのだろうけれど。
「当たり前だ、買いに行くっていったら普通外だろ」
そう笑いながら再びクローゼットのシャツに手を伸ばす。
だがそこで思わぬ声が背後から上がった。
「はい!はいはい!ねえ先生、私先生の服選びたい!」
    

   




                                           
   



何と返事をしたらいいのか解らず、緒方は眉を微妙に歪めた表情でを振り返った。
律儀に右手をぴんと挙手した姿ではベッドに起き上がっている。その目は遠目からでもきらきらと輝いて見え、さっきの発言が冗談ではなく至って本気のものだと雄弁に語っていた。
腕を組むと緒方は開いていない方の扉に寄りかかる。
「選ぶって何だ。どうするつもりだ?」
「だって先生、ほっとくといっつも白スーツじゃない」
緒方のシャツを羽織ながらが元気良くベッドから飛び出してくる。
どうやら完全に目が覚めたらしい。
何やら期待に満ちた笑顔で目の前に立ったの、その留めきれていないボタンに手を伸ばす。しかしどうにも藪蛇な展開になってきたことに緒方は溜息を禁じえない。
「その口振りじゃまるで俺の白スーツ姿が気に入らないようだな」
「うん、ちょっと」
悪気のなさそうなその即答にボタンにかけた指が凍る。
だが硬直した緒方に気付いた様子もなく、は僅かに首を傾げて上目遣いに天井を見上げる。
「だって勿体無いと思うのね。先生、他にもきっと色々似合うと思うのに、あればっか着るんだもん。私、白以外のスーツ着た先生も見てみたい」
些かぎこちない動きで緒方は指の活動を再開した。胸の谷間を視界から遮断することを終えると、たったみっつのボタンを留めただけなのに酷く疲れた気分がした。
「あ、なんだ先生、白以外も一杯あるんだ、スーツ」
そんな緒方を置き去りに、は無邪気にクローゼットの中身を楽しげに物色している。散々あれこれ迷った挙句、はチョコ茶のスリーピースを引っ張り出してきた。
そしてそれを胸に抱きしめながら甘ったれた声でねだる。
「ねえ、先生、これ着てみて?」
「……どこの馬鹿が駅前のパン屋に行くのにそんなスーツに着替えていくんだ?」
至極真っ当な反論にが唇を尖らす。まるでキスしてくれと云わんばかりの表情にベッドに逆戻りさせたくなりそうだった。
「これ着てくれたら私何か作るし、パン屋さんも私が行く」
扇情的な唇にふと緒方の胸に疑問が生まれた。
はもしかして相当鈍いのかもしれない。まだ幼い所為だと思っていたが、それにしたって何度も夜を重ねたのにふとした瞬間訪れる緒方の劣情に全くと云うほど気が付くことはない。
年齢というより実は感性の問題ではないのか?
眉を顰めた緒方の表情をどう解釈したのか、が益々懸命に云い募り始めた。
「うーんと、じゃあね、じゃあね、着てくれたら夕食は先生の好きなもの作ってあげる。あとあの映画も連れてってくれなくてもいいよ、私は観たいけど先生あんまり興味ないでしょ、あれ。えーと、それから一緒にお風呂入ってあげる。あとねぇ、アレもしてあげる。まだダメ?じゃあ先生のいうこと何でもきくっていうのは?」
きらきらと濡れた瞳でが哀願してくる。
疑惑が確信に変わるのをここまで鮮やかに感じられる瞬間というのも稀有だろう。
かもしれない、ではない。
確実にはこの手のことに鈍いようだ。
さもなければ緒方を無害な子犬か何かと勘違いしているか、未来予測能力と戦略策定能力が著しく欠如しているのだろう。そうでなければシャツ一枚の魅力的な格好でこうまで無謀な発言はしないはずだ。
緒方の盛大な溜息に今度は頬を膨らませる。
「もう、先生そんなに嫌そうにしないでもいいじゃない。あ、そうだ、着てくれないならもう先生とえっちしなーい」
懇願から脅迫、話がさらに藪蛇な展開に方向転換しそうだった。
シャワーを浴びてからすでに十分以上が経過している。いい加減半裸で居ることも辛くなってきた。このままでは風邪を引くかもしれない。
だから別に緒方はぶら下げられた餌に飛びついたわけでも、脅迫に屈したわけでもないのだ。
さも仕方なさそうに眉間に苦々しげな皺を刻んで、緒方はの胸に抱きこまれているスーツを睨んだ。
「…………シャツは?どうせなら全部選べ」



「いーやーっ!!先生無茶苦茶かっこいい!」
部屋に入った途端にが奇声を上げて兎みたいにぴょんぴょん跳ねた。
幸い高い家賃を毟り取るだけあってこのマンションの防音対策はしっかりしている。第一細身のが多少暴れたところで下に響くとも思えない。現に今だって部屋の中に居る緒方の耳にさえ騒音と呼べるような音は聞こえなかった。
ベッドに腰掛け煙を吐きだしながら、緒方は無意味にここの床の材質が何だったかを考える。
茶色とこげ茶の中間のような微妙なチョコレート色のスリーピース。微妙に肩幅がきつい感じがするのは、確かジムに通い始める前に買ったものだからだろうか。
が選んだシャツは僅かにピンクがかったベージュ、ネクタイは艶のある赤茶。ベストのボタンを留めていない状態で、その赤茶のネクタイを締める為に緒方は鏡の前に立った。向かい合ったもう一人の自分は、朝から苦渋に満ちた顔で眉を顰めている。
まさか三十路になって着せ替えで遊ばれることになろうとは。
こうなったら徒歩で行こうと思っていた買い物も愛車に変更して、所謂ホテ地下まで脚を伸ばしてやると自棄気味に予定を立てる。
半乾きの髪を後ろに撫でつけ、二つボタンのジャケットを羽織るとの名を呼ぶ。は自発的に寝室を出て行っていた。緒方も自分の着替えているところなどしげしげ見られたくないので丁度良かった。だいたい女と違ってどうして男の着替えている姿というのは間抜けな感じがするのだろう。
買っただけで一度も外に履いていなかった革靴まではクローゼットから引っ張り出してきていた。それに脚を通して、煙草に火を点けてもはまだ来ない。
ベッドに腰を下ろし脚を組むとその革靴とパンツの隙間の、これまた指定の薄い質感の靴下に包まれた己の足首が目に入り、心底自分は何をやっているのかと我に返りそうになる。
現実から目を背ける為に黙々と何度も煙を吐き出す。
そしてやっと来たと思ったら部屋に入るなりからは奇声と跳躍。遅かったのは自分も着替えていたからのようだ。散々人をごてごてと着飾らせておいて、自分はさらりとニットとジーンズを着ている。
弾むような足取りと零れるような笑顔でやってくる。
「どうしよう先生すごいかっこいい!サラリーマンみたい!」
「どうせなら平のリーマンなんかじゃなく課長みたいだ、ぐらい云ってくれ」
やさぐれてあらぬ方向に煙を吐き出していると、が携帯電話を向けてきた。理由を問う前に一瞬その携帯が光る。
「何だ?何をした?」
「写メ〜ル〜。先生のこの姿を待ち受け画面にしようと思って」
「止めろ」
睨みつけると、それなのに何故かはうっとりと微笑む。
「……ああ…もうどうしよう、先生ほんとにかっこいい…」
呆れたように嘆息すると緒方は機敏に立ち上がった。そしてすばやくの手から携帯を奪い取る。
「あ!先生返して!」
ぴょんぴょんと縋りつく手を無視して、身長差を活かして頭上でボタンを操作していく。自分でも見慣れない茶のスーツで顔を顰めたデータを発見すると、それを迷うことなく削除する。
「ほら、返すぞ」
差し出した携帯を乱暴に掴むと、が急いでボタンをいじり始める。
「……あ〜ひどい〜。なんで消しちゃうのぉ〜、先生のばかばかばか〜」
泣きべそをかきながらの抗議を鼻で笑う。
「肖像権って知ってるか?馬鹿なこと云ってないで何が喰いたいか決めろ。それともお前も一緒に行くか?」
「え?一緒に行ってもいいけど、まだダメだよ。まだ着てもらいたいのあるし」
その言葉に緒方の歩みが止まった。自分の聞き間違いを問い質したそうな、疑惑に満ちた眼差しでゆっくりとを振り返る。
だが未だ未練ありげに携帯を弄っていたの方は、逆にそんな緒方の反応を不思議そうに眺めた。
「………お前はこれ以上俺にどうしろって云うんだ」
「あとこれ着てみて欲しいの」
クローゼットに歩み寄ると、その中から黒のスーツを取り出してみせる。
胸の前で腕を組むと緒方は僅かに顎を上げてを睥睨した。もしも本当に緒方が課長で、提出した書類に目を通した途端にこんな顔をしたりしたなら、声を発するより先に部下は即座に謝罪して書類を引っ込めることだろう。
「駄目だ。俺はお前の玩具じゃない」
そう告げるとは不満げな顔で一瞬黙った。しかしふらりと緒方のもとに歩み寄ると、ベストのボタンに手を伸ばす。
「…おい。何のつもりだ?」
「先生が着替えてくれないなら、着替えさせようかなーって」
ベストのボタンを全て外すと次はネクタイに指を絡ませる。
けれど緩めるどころか反対に首を絞められそうになって、緒方は咄嗟にその手を掴む。
「いい加減にしろ」
「先生だって私に色々着せたがるじゃない。先生が私にチャイナ服着せたがるのと私が今先生にこれ着て欲しいのはきっとおんなじことだと思うんだけど」
「お前と俺じゃ目的が違う」
天井を仰いで嘆息する。その隙に性懲りもなくが掴まれていない方の手をネクタイの下の胸板に這わす。ボタンを探り当てるとどうにかそれを外そうともがく。
緒方は掴んでいた手首を開放した。
は嬉しそうに微笑むと、さっそく両手をボタンにかける。けれども第二ボタンから臍の辺りのボタンまで外したところでその指が動きを止めた。
ベルトに触れることもできずに、の顔から笑みが消えていく。
「どうした?」
「……先生、ほんとに私に脱がせてほしいの?」
「ああ」
そう云ってにやりと笑うとが上目遣いに睨みつけてくる。
今更自分のしたことを後悔しているみたいに紅くなった頬がおかしくて緒方は笑った。結び目に指を突っ込んでネクタイを一気に引き抜くと、の腕の中のスーツに手を伸ばす。
「外で待ってろ。俺の着替えなんか見たくないんだろ?」



「せん…アハハハハ!」
部屋に入った瞬間は絶句して、そして身をふたつに折って弾けるように笑い出した。それどころか床に膝を着くとそのまま撃たれたように倒れ伏してしまう。
「せんせ…ゴクツマに出てそう、若頭〜とか呼ばれてそう、絶対刺青ありそう〜」
笑いすぎて息も絶え絶えになっているくせに、はわざわざ懸命に余計なこと云う。
フローリングで打ち震えるその身体を冷たい色で見下ろしながら、緒方はスーツの袖口からカフスを引き出しボタンを外した。
ボタン位置が高くウエストラインのタイトなふたつボタンの真っ黒なスーツ。そのままでもいいかとも思ったが、やはり黒いスーツにベージュのシャツではおかしい気がしたので白いワイシャツに着替えた。だが流石にもう面倒なのでタイは結んでいない。シャツも下のボタンを二、三留めただけでパンツに突っ込んだだけの状態であり、胸元は大きくくつろげられている。
確かにこの格好で歌舞伎町を歩いたりしたら一分と待たずに絡まれそうだ。
または行く先々で頭を下げられるか。
どちらにしても質の悪い冗談だ。
大股に歩み寄って片膝を着く。うつぶせに震える肩口に手を入れ、顎を掴むと強引に顔を上げさせる。
「俺がヤクザならお前はその情婦か?」
瞳を細めてわざとらしく獰猛に微笑むと、も涙に濡れた瞳で微笑む。
「情婦と恋人ってどう違うの?」
「似て異なる」
顔を近付けるとも首を反らす。
不自然な姿勢の所為でほんの微かに触れるだけですぐに唇は離れた。目蓋を開くとがまた微笑む。指を伸ばしてその眦を濡らす涙を拭ってやると、未だ床に転がったままのがその手を捕らえた。
両手で緒方の手を包むと手のひらの中心に唇をやわらかく押し付ける。そのまま人差し指の付け根、第二関節、第一関節にも唇を落とし、マニキュアを塗ったように光る磨り減った爪を口に含んで甘噛みした。
その顔が見たくて額に落ちかかる髪を掻き揚げると、緒方の視線に気が付いたは恥らうように伏し目がちになってその愛撫を止めてしまう。
漸く上半身を起こすと、その顔を隠すようには緒方の胸に身体を滑り込ませた。シャツから覗く右の鎖骨の辺り、その小さなホクロにキスをして吐息と共に唇を離す。
「…ねぇ先生、今度お洋服買うときは私に選ばせて」
緒方はわざと返事をしなかった。
気が向けばそうさせてやっても良いと思ったのかもしれないし、させたくないからあえて返事を避けたのかもしれない。だがどの道言葉にしたとしても関係なかったかもしれない。
緒方の意識は全然別のことに集中していたのだから、例え今何を口にしても全て嘘になりそうだった。








「……はーい、解りましたー。じゃあちょっと時間つぶしてから行きまーす」
通話を打ち切るとは二つ折りの携帯を閉じた。
しかしホームへと続く階段を下りながら、ふと今しがた閉じたばかりの携帯を開く。
その待ち受け画面に視線を落としはいとおしげに瞳を細める。
丁度ホームに辿り着いたところで電車が滑り込んできた。人波に合わせて移動しながら、携帯をバッグにしまう。
さっきが見つめていた待ち受け画面。
そこには白いスーツを纏った右腕が映っていた。
もちろんその腕の持ち主は緒方だ。この前レストランに行った時、緒方がウェイターと会話をしている隙にこっそりと隠し撮りしたものだ。殆ど勘でレンズを向けた所為で緒方の顔は写っていない。ぎりぎり肘の辺りから煙草を挟んだ手元が写っているだけの代物だ。比率で云ったら無関係のテーブルと灰皿の方がよっぽど画面占有率は高い。
だがそれでもはこの写真がいたく気に入っていた。
は緒方の手が好きだ。唇を寄せるとまるで肌の一部のように右手の指からは煙草の匂いがする。煙草を吸う代わりにはその香りを胸に吸い込む。
関節のはっきりとした指は甲の部分と同じぐらい長さがある。緒方は棋士だ。ほとんど労働らしい労働なんてしていないはずなのに、その手は意外なほど骨ばっていて無駄が無い。単純に綺麗というよりは、動いた時に目を引いたり、全体的に整った印象を与える手だった。それはとても緒方らしい手だと思う。
あのチョコ茶のスーツ姿は惜しかったが、はこの写真だけでも満足だった。
だってやっぱり、白いスーツ姿の緒方がは一番好きなのだ。