「いらっしゃいませ」
最早顔なじみになった、まだとたいして歳が変わらないだろう見習の青年は、緒方を認めて他の客より若干親しみを込めた笑顔で出迎えてくれた。
「悪いな。予約より遅くなった」
結局レインボーブリッジを渡ってお台場に入り、そこでの我侭に付き合ってるうちに日は暮れ始め、挙句渋滞に巻き込また。
電話はしておいたが明らかにこちらの不手際だ。
「遅れたといってもたいした遅刻じゃありませんよ。いつも御贔屓にして頂いていますし、大将も緒方先生相手じゃへそを曲げるわけにもいきませんしね、さ、そんなところに立っていないでお席にどうぞ」
笑顔で快活に云い放ち、身体を開いて奥へと腕を差し伸べる。
清潔で俊敏で気持ちの良い青年だ。緒方はこの青年を気に入っていた。
礼を云って、緒方は自分の背に隠れるようにしていたの背を押して前に出した。驚きを隠し切れずに青年が微かに瞳を見開く。は小さく会釈してから、上質の竹で作られた目隠しの向こうに消えた。
身についた習慣か「ごゆっくりどうぞ」とその背を見送ったものの、が見えなくなると客商売の遠慮を消してぱちぱちと瞬きを繰り返す目で青年が緒方を見つめる。
云いたいことは予測がつくので緒方はその視線に苦笑して、を追った。
目隠しの向こうではが物珍しげに生け簀で泳ぐ魚たちを覗き込んでいた。
通路に敷かれた真っ白な丸石を踏みながら、緒方はその背後に近付いた。ぱっと見たところ真鯛、しまあじがひらひらと泳ぎ、底にはウニ、ひらめ、壁にはあわびが張り付いている。
「先生、アレなんですか?」
食欲をそそられるというより生きている魚が珍しいのだろう、綺麗に手入れされた爪でが水槽を指す。良く見るとその爪には艶々としたベージュをベースにしたフレンチネイルが施されていた。
「ひらめ。喰ってみるか?」
「えっ!これ喰べちゃうんですか!?」
驚愕といった表情でが緒方を振り仰ぐ。
勢いのある笑い声が弾けた。緒方ではない、カウンターで包丁を用意していた所謂≪大将≫のものだ。
「そら寿司屋に魚だ、緒方先生の酔狂と違って観賞用に飾っておくわけにもいくめぇ。魚は喰ってこそナンボだ」
ははは、と重く声量のある声で笑い飛ばす。「そうですね、そうですよね」とが僅かに赤くなった顔を隠すように右手で頬に触る。
君、好き嫌いは?」
「え?ないです」
「アレルギーはどうだい?サバぁ、喰って大変なことになった奴も居るよ。救急車呼んでな、男連れのご夫人だったけど真っ赤な発疹だらけになっちまってぇな、そら百年の恋も冷めらぁって顔になっちまってな、可哀想だったぜ。大丈夫かい?」
「アレルギーも大丈夫です。その方どうなったんですか?可哀想…」
通りすがりの世間話に本気で心配そうに眉を顰めたに大将は一瞬目を丸くして、それから強面の顔でにっこりと笑った。
「さぁてな、男と女の事は俺にはわからんよ。俺がわかるのは寿司のことだけ、さ、座りなお嬢さん、美味いの喰わせてやるから」
が緒方を見上げる。緒方はその背に手を回し、丁度大将の前のカウンターにを座らせた。





「なんだ、お嬢さんも碁プロなのかい?見えないねぇ」
「失礼ですよ、もう!これでも私強いんですよー、なんなら勝負しましょうか?」
がはは、と豪快に笑い飛ばされてが頬を膨らませて大将を睨む。
先程が指差したひらめから始まり、ウニ、トロ、穴子といったものを一通り食し、もう目の前にはかっぱ巻きといった巻き寿司が並んでいる。食事が終わろうとしている証拠だった。
「いらねぇや、俺は碁のルールなんてさっぱりだからな、端から勝負にならねぇよ」
店に大将の笑い声が響く。明らかに上機嫌だった。
知ったかぶりもせず解らないことは素直に訊く、喰べ方も上品だしにっこりと美味しそうにして喰べる。を気に入るな、という方が無理な話だろう。
おかげで大将がを構うものだから、緒方は黙って食事に専念できた。
「お嬢さん、いや、先生って云った方がいいのかねぇ」
「ヤですよ!止めてくださいよ先生なんて!」
「ははっ、じゃあお嬢さん、アンタも先生と同じように上を目指してるのかい?ええっと、何だっけほら緒方先生のお師匠さん、トンダだっけを目指してるのかい?」
「トンダじゃなくて、塔矢名人ですよ。ううん、私が目指してるのは」
ちらりとが横の緒方に上目遣いを送る。
「何だい、緒方先生かい?」
「ええ。先生の碁に憧れてこの道に入ったようなものですから。でも先生ったら酷いんですよ!私が何遍好きだって云っても相手してくれないの!今日だってもっのっすごーく苦労してやっとデートしてもらったんですよ!どうやったら先生が私のこと好きって云ってくれると思います?何か良い方法知りません?」
最後のひとつを箸で挟みながら、が不満げに唇を突き出す。
「ほほーう」
にやにやと意味ありげな目の色で大将が緒方を見下ろす。その大将の後ろではアシスタントをしていた例の青年が必死で笑いを堪えている顔をしてる。
緒方は過去数回女を同伴してこの店を訪れている。その数回ともが全て違う女だ。それに関して何か云われたことなど無いが、皆似たり寄ったりの年齢と服装の女だった。先程の青年の妙な表情は、これまでとは余りに毛色が違う上に若すぎるを連れてきたことに起因する。
緒方は湯飲みを置いた。
「大将、そろそろ勘定を頼む」
別にこれまでのことを暴露されるとも思えないし、実際ばらされたとしても緒方には痛む腹などないのだが、それでも風向きが悪くなっているのを承知で居座るほど馬鹿ではない。
「もう?あがりのおかわりは?」
緒方の言葉に大将が笑いを噛み殺しながら、白々しくそんなことを云う。
「結構だ。君は未成年だからな、余り遅くまで連れまわすわけにもいくまい」
「へいへい…オイ、ヒデ、お愛想だ!」
一旦奥に引っ込んでいた青年がへーいと元気良く返す。
緒方が財布を取り出す傍らで、も慌ててバックを引き寄せる。
「あ、先生私だしま…」
「へい、お待ちどうさまでした、全部で三万一千五百六十円になります」
「さんま……っ!?」
驚愕にが硬直する。
緒方は財布から紙幣を4枚取り出すとそれを青年に渡して、立ち上がった。
「大将、ご馳走になった。君、帰るぞ」
「え、あ、はい!」
が慌てて立ち上がる。
釣りを受け取ると緒方はと連れ立って店を出た。
「お嬢ちゃん、またおいで。金のことは心配すんな、緒方先生のツケで喰わせてやるからよ」
他にも客は居るというのにわざわざ大将は店先まで出てきた。車に乗り込み、クラクションを鳴らして通り過ぎるまで、最後まで豪快な笑いを絶やさなかった大将は二人を見送ってくれた。
「気に入られたな、君」
緒方はハンドルを握りながら、喉の奥で笑った。
緒方一人の時はこれまでも何度かあったが、今まで連れていったどの女もあんな風に見送ってもらったことはない。
「先生」
それなのに酷く思いつめたような声でが緒方を呼ぶ。
予想通りだ。
君、さっきの煙草は?」
「あ、はい、あります」
緒方に気勢を制されて、は慌てて小さなバックから紅い箱を取り出した。
「一本くれないか」
「はい」
綺麗な爪でビニルを剥がし、蓋を開けると笑えるぐらい慎重な動作で一本引き抜く。
「はい、どうぞ」
前を向いたまま緒方はそれを唇に咥えた。
「火を。ライターはそこにある」
「はい」
すぐに薄暗い車内にほんの小さな火が灯った。
目の前の信号が黄色に変わった。車を減速させ停車してから、緒方はが馬鹿正直にライターを差し出し続けている手を引き寄せて火を点けた。
パワーウィンドウを下げて、外に向かって煙を吐きだす。当然店内では禁煙だったから、ニコチンが肺に染み渡るようだ。
「これで十分だ」
深々と煙を吸い込みながら囁くように告げると、は解らないという風に眉を顰めて見せた。それから直後に意味を理解して、ただでさえ大きな目をさらに丸くする。
「だっ、駄目ですよ!私がご馳走するって云ったのにオカシイですよ!」
「だから今こうしてご馳走になっている。中途半端なものを喰べさせられるより、こっちの方がよっぽどいい」
が言葉に詰まる。取材料も高が知れている、三万の寿司に連れて行かれては確かにそこそこのお店に連れて行けるわけもない。
「この話はこれで終わりだ。家はこっち方面でいいんだな?」
「はい……」
沈んだ調子でが答える。
それから車内は穏やかとも取れる静寂が支配した。





住宅街に入り、数本道を奥に進んだところにが借りているアパートがあった。
2階建てのワンルーム。元々は白かったであろう塗装は排気ガスに汚れ、今は見る影も無い。一階の廊下にはマウンテンバイクやキックボードが置かれ、このアパートの住人の年齢層を物語っていた。
「部屋は2階か?」
「はい」
「君も一応女の子だからな、その方がいい」
意地悪く云ってやったのに、は黙って自分の手元を見つめていた。
もうとっくに到着してるというのに、が降りる気配は無い。降車を催促する気にはならず、緒方の方も黙って新しい煙草に火を点けた。
車内にオレンジ色が広がってすぐに消えた。
「……先生」
「何だ?」
煙を吐き出し、ついでのように返事を返す。
その声に決心したようにが顔を上げる。
やはりその瞳は濡れていて、きらきらと街灯の光を跳ね返した。
「先生、私のこと、迷惑?」
緒方は一瞬の間の後、皮肉げに唇の端を吊り上げた。
「まぁね」
その言葉にが目を丸くする。
やがて瞬きもせず、呆然と言葉を紡ぐ。
「…………びっくりした。絶対、ああって云うと思ってたのに…」
そう。
それが正解だった。
緒方は『ああ』と返事をすべきだったはずだ。
まるで自らをも観察するように、緒方は煙草を片手にと目を合わせていた。
「…どうしよう、嬉しい……」
細い声で呟くようにそう云って、は半分泣きそうな顔でふわりと微笑んだ。




ぎし、と椅子が鳴った。
が緒方の方に身を乗り出したのだ。
薄暗い闇に閉ざされた車内。
街灯の頼りない光。
緒方は動かなかった。
「…………おやすみなさい」
早口の擦れた声でそれだけ告げると、はドアを開け逃げるように階段を駆け上がっていった。
ミュールが階段を打つ音はすぐに聴こえなくなった。
緒方はゆっくりと車を出した。
自分でも不思議だった。
何故、自分はの質問に『ああ』と答えなかったのか。
何故、自分は今頬とはいえの唇を避けなかったのか。
幾らでも避けることは出来たのに。
去り際、暗闇の中でもが首まで朱に染めていたのが解った。
たかがあれだけのことで。
緒方の中で今の行動に対して肯定と否定という相反する意見が行ったり来たりしている。
結論が出ない。
だがそれでいい、とも思う。
どうせどちらにしてもそれをやったのが緒方自身だということに変わりはないのだから。
緒方は煙草の箱を揺らし、一本を唇で取り出した。
けれど結局自宅に着くまで火を点けないままだった。


何故そんなことをしたのかは、緒方にもよく解らなかった。