「いい天気だなぁ……」
 九月の空は昨日までの雨が嘘のように晴れ渡っていた。中天に向かって淡いグラデーションを描き、雲ひとつなくどこまでも澄み渡っている。そんなからりと爽やかな空模様とは裏腹に、地上では未だ残暑は厳しくて太陽は屋上のコンクリートを容赦なく焦がしていた。
 花井君は錆の浮いた手すりに背を預け、眩しそうに空を見上げている。
「まだ暑いね。水谷君たちがあとでアイスの差し入れでもしてやろっかって云ってた」
 その横顔を見詰めながら私は意味のない会話を継続する。
 三年の間に花井君はさらに背が伸びた。筋肉がついて肩幅も背中も広くなって、今ではすっかり頼りがいのあるキャプテンが板についている。ただし坊主頭だけは一年生の頃から変わらない。おかげで別に西浦は坊主強制じゃないのに花井シンパの野球部後輩は頑なに坊主頭を貫いている。花井君が慕われている証拠のように思えて、部外者のくせに私はそれが何だが嬉しかった。
「んじゃ俺も金ださなきゃ」
「あっという間だったね。花井君、二年のとき新入生にキャプテンって呼ばれるたびにぎくってしてたの覚えてる?」
「いや、してねーって」
「ううん、してた。だって、水谷君たちはキャプテンなんて呼ばないし、先輩不在の上下関係のない状態で一年過ごしちゃったから、中学のときはなんでもなかったのになんか妙にどきっとすんだよなーって私に云ったもの。あと実際に花井君がキャプテンって呼びかけられてびくってしたの、私見たことある」
「そうだっけぇ?」
 予想通りの返答に口元が緩む。
 多分、本当は憶えているのだけど、忘れた振りをしているのだろう。
 花井君は変わった。でも、そういうところは変わらない。
「ここにもよく来たなー。弁当喰ったり昼寝したり」
「なんか私まで夏大終わったら全部が終わっちゃったような気がして、ここにくるだけでセンチメンタルな気分になる」
「俺もそう。夏大終わったら気が抜けた。全部終わったような気がして困る。受験控えてんのによ……って、あーなんかくっだらねぇこと思い出しちまった」
「貧乳はステータス事件?」
「おま、俺の心を読むな」
 空を見上げたまま花井君がからからと笑う。くっきりと浮かび上がった喉仏が震えている。私は目を細めて、その横顔を記憶に焼き付けた。
「あれ、今だから云うけど、結構本気で傷ついたんだよね」
「え、マジ? わりい、笑って」
 花井君が空から私に視線を落とす。視線が絡む。花井君はいつかみたいに右目を眇めた。
 痛みを覚えたようなその表情。
 私はほんの少し笑う。
 花井君は私が彼に何を伝えようとしているのか解っているのだろう。
 私は自分がもっと躊躇うかと思っていた。三年間云えなかった言葉だ。声がいびつに歪んだり咽喉に痞えるのではないかと危惧していた。なのに、ずっと大切にしまってきた言葉は羽がはえたみたいに軽やかに私の唇から飛び立った。
「花井君のこと好きだったよ」
 一瞬だけ瞠目して、それから花井君は静かに表情を消していった。
 熱を孕んだ風が私の髪を揺らす。でも、私はもう揺れない。
 私は花井君に焦がれていた。ずっとずっと焦がれていた。私は確かに花井君に恋をしていた。
 花井君に感じていたものが恋だというのなら、私は彼に恋などしていないのだろう。些細な言動に惑うこともなければ、ふとした瞬間その後姿を思い出すようなこともない。細胞すべてが『好き』というたったひとつの単語によって染め上げられていると錯覚しそうなほどの強い想いを持て余したことなど一度もない。花井君に対して抱いたものとはあまりにも違う。
 私の田島君への感情は恋なんて清廉な美しさに彩られたものではない。
 好きだとは思う。でも、それだけじゃない。愛情以外不純物の一切なかった花井君への想いと異なり、田島君への想いは色々な感情が複雑にもつれて分離不可能なくらい混ざり合っている。
 田島君はあの日の約束を忠実に守った。
 だから、私も約束を守った、最初はそれだけだった。
 田島君はあれ以上私の恋を破壊するような真似はしなかった。花井君を牽制するようなこともしないし、私が花井君と喋っていても邪魔をしない。表面上は花井君への嫉妬を表に出すこともなくなった。
 田島君がそうやって誠実に振舞ったから、私も田島君の存在を拒絶するのを止めた。私の傍に来るのも、私に話しかけるのも、私のことを好きでいることも、それは田島君の自由だから私は彼を受け入れた。
 警戒心や先入観を捨てて対峙してみれば、田島君は他の男子よりも付き合いやすかった。後先考えない行動に絶句させられることも多かったけど怒れば一応反省もする。変に素直で不意打ちのようにこっちがどきりとするようなことを云う。暴力的なまでの勢いで感情を押し付けてきさえしなければ、田島君は無邪気で可愛い弟のようだった。
 でも、そうじゃないことにすぐに気付かされた。
 確か二年生になってしばらく経った頃だと思う。その頃になると私は田島君といることにかなり慣れていた。田島君もその空気を無意識に察していたのかもしれない、何かの折に机に置かれた私の手をごく自然に取ったのだ。座っている私に立ち上がるよう田島君の手が屈託なく促す。私は酷く驚いて、すぐには立ち上がれなかった。その気配に田島君は不思議そうに振り向き、直後しまったという顔をした。黒い瞳にはっきりと拒絶への恐れが浮かんだのを私は見てしまった。それが可哀想だと思ってしまった。
 手を離すべきだ、離したくない、そんな葛藤まで伝染してきて、私は堪らなくなって田島君が指をほどく前に立ち上りその手を引いて歩き出した。
 自分でもなんて傲慢な憐憫だと思う。
 けれど、その後も同じようなことを繰り返し、私は田島君に触れられても嫌悪を感じていない自分自身に気付いてしまった。ふざけて肩を抱かれても私は拒否しようとしなかった。田島君が手を退かすまで田島君の好きなようにさせてしまった。私は自分の身体の自由を田島君に任せてしまった。そこまでいくとそれはもう同情とは無関係の話だ。そんな自分に動揺し狼狽し、否定しようと私は闇雲に足掻いた。それでもどうしようもなくそれは事実だった。
 自分でも気付かないうちに私は田島君の侵入を許してしまっていた。
 脆い砂糖細工に触れるように恐々と私を抱き締めたその腕も、私が逃げ出さないことに安堵の吐息を漏らした胸も、彼のそういう弱さを私は愛しいと思ってしまった。
 私はもう田島君を怖いとは思わない。
 むしろ、常に私に全てを曝け出して縋り付いてきた彼は三年前よりもずっと弱くて臆病なくらいだった。彼の悪いところも良いところも知った。好きになれないところも、嫌いになれないところも見てきた。彼の語る言葉の嘘も真実も理解した。だから、流されたわけじゃない。
 私自身が彼ときちんと向かい合って、田島君を選んだ。
 花井君の背後、上空を大きな鳥が過っていく。
 それが合図だったかのように花井君が目を伏せた。
「好きだった、か」
 苦い呟きだった。
 俯いた所為で睫毛が頬に影を作る。その悲痛な仕草と表情は私の奥底に眠っていた衝動を思わぬ強さで揺さぶった。もう揺れないはずだったのにあまりにも呆気ない。これで最後なのだ、だから尋ねてみてもいいのではないか、そんな甘い考えが理性を溶かそうとする。
 私は訊いてみたかった。
 本当に私の恋が伝わっていなかったのか。一度たりとも心が揺れたことはなかったのか。花井君の本当の心はどこにあったのか、を。
 その誘惑に身体が震えた。
 でも、もう遅い。
 田島君も花井君も、そして私も選んだのだ。
 咽喉に熱いものが込み上げてくる。私はそれを押し殺し、笑顔を作った。
「ありがとう」
 返事はない。花井君は黙って私の瞳を見ている。今度は私が目を伏せる番だった。
 一歩後退し反転する。出入り口へと向かう。私は振り返らない。視線を感じたけれどまっすぐに歩く。ノブに手をかけて咽喉に詰まった塊を飲み干した。重い鉄製のドアを肩で押すようにして開く。
 かちゃりと不釣合いに軽い音を立ててドアが閉まる。踊り場は薄暗い。溜息を吐きそうになって、それが零れる前に私は視線を上げた。ドアのすぐ右隣の壁に田島君が背を預けている。
 ここには空なんてないのに、田島君は花井君と同じように顎を上げ天井を睨んでいた。
「田島君」
 我に返ったみたいに田島君が私に視線を落とす。三年の間に田島君と私の視線の位置はずいぶんと変化した。私は田島君を見上げねばならないし、田島君は私を見下ろす形になる。
「終わった?」
 ひとつ頷くと田島君は眩しそうに黒い瞳を細めた。
 差し出された手を繋ぐ。
 私にはそれが酷く自然なことに思えた。