不意にクラスがどよめいた。
 私の前の席で『田島君は五人兄弟の末っ子』だの『元シニアの四番バッターで今も部活で大活躍している』だの、私にとっては酷くどうでもいい情報を並べ立てていたおせっかいなクラスメートも色めき立った声を上げる。「ねえ」と手首を掴まれたので嫌々顔を上げると、花井君たちとともに田島君が姿を現したところだった。
 田島君は「頑張れよー」などという無責任な声援に対して笑顔で「おう」と軽々しく腕を上げて答えている。私は酷く冷めた気分でそれを眺めた。馬鹿だなと思う。
 どの面下げて私の前に立つのか。
 馬鹿だ。本当に馬鹿だ。
 私が花井君が好きだと理解した上であんな真似をしといて、自分が好かれるとでも思っているのだろうか。それとも花井君との恋に望みがないと知れば私が自分に靡くとでも考えたのだろうか。だとしたら馬鹿だ。本物の馬鹿だ。
「あー……はよ、
「おはよ、!」
 気まずそうな花井君と朗らかに笑う田島君。対照的なふたりの姿に胸の奥が冷たく重くなっていくような気がした。
「おはよう」
 花井君は私から返事があったことに安堵したのか微かに微笑んだ。私の後ろを横切り自分の席へと向かう。興味津々と云った顔のクラスメートが立ち上がると、代わりに田島君が当たり前の顔をしてその椅子に収まる。
、昨日の夜なに食べた? 俺はさー」
 私は無言で立ち上がった。隣で花井君が鞄から教科書を出して机に移している。私はその背に両手を伸ばした。
「田島君なんて嫌い。近寄らないで」
 清潔なシャツを握り込む。硬い背中に額を押し付けると汗のにおいがした。
 一拍置いて昨日と同じ無責任な歓声が再現される。ううん、昨日より音量が増したかもしれない。耳に騒音が突き刺さる。
 うるさい。うるさい。うるさい。
 人の気も知らないで、みんな、うるさい。
「ちょ、、おま」
 花井君が上半身を捻った。だが、私の頭に肘がぶつかりそうになって慌てて右腕を静止させる。筋肉の緊張から焦っているのが声を聞くより先に解った。でも、私は離れない。私も馬鹿だと思う。田島君への復讐に花井君を利用している。大好きな人をこんな馬鹿げた騒動に巻き込んでいる。
「あのさ、ちゃん、こいつ、バカだけどいきなり取って食ったりはしないよー花井の後ろに隠れなくても平気だよー怖くないよー」
 田島君が馬鹿なものか。
 さっきは馬鹿だと罵ったくせに、私は反論したかった。田島君は馬鹿だけど馬鹿じゃない。田島君はとても冷静に私を観察して、整然と花井君の性格を分析して、そしてその結果昨日あんな蛮行に及んだのだ。
 そう云ってやりたくて花井君の背中から顔を上げる。けれど、人目のある場所でぶちまけるのには抵抗を覚えた。田島君の罪を告発するには私と花井君の内面にまで言及しなければならない。これ以上他人に私の恋を土足で踏み荒らされるのはまっぴらだ。
 躊躇いが咽喉を塞ぐ。声を出せない私をどう解釈したのか、水谷君はほっとしたようにへにゃりと笑う。
「そんなにさー嫌わないでやってよ。田島はが好きなんだからさ、そんなあからさまに避けたら可哀想だよ」
 一晩置いて鎮まったはずの痛みが一気に噴き上がった。
 田島君が可哀想なものか。
 本当に可哀想なのは、私の方だ。
「ちょ……ええっ、なんで泣くの!」
 花井君が「てめ、水谷っ」とその口元に手を伸ばしかけたが、それよりも速く阿部君が背後から無言で水谷君を蹴り上げた。
 痛がる水谷君を乱暴に脇に押しやると、溜息を吐きながら私たちを見回す。
「田島、お前はもう自分のクラスに帰れ。も花井が困ってるから離れてやってくれないか」
 困っている……。私は鈍い動きで顎を上げた。
 肩に隠れて花井君の表情はよく見えない。けれど、前を向いたその横顔は硬く張り詰めているように感じた。
 ああ、花井君は困っているのだ。優しいから、お人よしだから、私を無碍に振りほどくことも出来ずにいる。泣いたら余計に迷惑だ、解っているのに苦しくて涙が溢れ出す。
 いつの間にか私の手は氷のように冷たくなっていて、まるで誰か別の人間のものみたいで関節を動かすのに努力が要った。
 私の指の下から醜く皺の寄った花井君のシャツが現れる。昨日のように直す気にはなれなかった。もう触れてはいけないような気がした。
 私が花井君を解放するのを待っていたかのように田島君が踵を返す。実際、多分そうなのだ。私の指先が完全に花井君から離れるのを見届けるまで、田島君は私から視線を逸らそうとはしなかった。
 俯くと古びた木目に向かって涙が落ちていく。自分のしたことに酷く惨めな気分になった。
「篠岡」
「うん」
 ピンクのミニタオルが差し出された。千代ちゃんが下から覗き込んでくる。
「あのね、美憂ちゃん、保健室、行こっか」
 ふわりと千代ちゃんが笑う。同情も好奇心もないその表情に救われたような心地がして余計に胸が痛くて私は両手で顔を覆った。
「ね、行こっか」
 いつの間にか教室はしんと静まっていた。千代ちゃんはそっと私の手にタオルを滑り込ませる。肩を抱かれて教室を出た。
……ごめんな」
 ついてきていたのか、教室のドアを潜るときに花井君の呟くような声を聞いた。
 私は振り返らなかった。花井君は何故また謝ったのだろう。
 謝るくらいなら昨日みたいに頭を撫でてくれればいいのに。でも、花井君はきっともう私の頭を撫でたはりしない。
 気が付けば千代ちゃんと手を繋いでいた。右手を引かれながら、私は空の上を歩いているようだった。くるくると頭の中で木馬のように記憶は回転し反芻する。
 水谷君は明るい口調で場を和ませようとしていた。無神経どころかその逆で、花井君と私と田島君が描いた歪な三角形を中和させようとしてくれたのだろう。彼に悪気があったわけではないのに、申し訳ないことをしてしまった。阿部君とは殆ど喋ったことはない。さっきの判断はとても冷静で公平だと思った。誰の味方でもないような口ぶりだったけど、その言動には何か一本芯のようなものを感じた。ああ、そうか。どうして千代ちゃんが私の手を引いてくれているのかといえば、彼らは野球部で繋がっているのだ。もしかしたらこういうのも不祥事に数えられるのだろうか。
 私はとんでもないことをしてしまったのかもしれない。
 ぶるりと肩が震えた。
 慌てて顔を上げると、千代ちゃんが「ん?」と小首を傾げる。
「千代ちゃん、ごめんね、ごめんね」
 頭の中では大量の言葉が渦巻いているのに、唇から吐き出されたのはあまりにも稚拙な思考の残骸だけだった。大きな瞳を一層丸くして不思議そうに私を見つめた後、千代ちゃんは軽やかに微笑んだ。
「別に美憂ちゃんが謝ることないよー。だって、美憂ちゃん、昨日はびっくりしちゃったよねぇ。田島君も何もあんな人前で告白することないのにねぇ」
 どこかピントのずれた返事に私は戸惑って声を失う。
 けれど、千代ちゃんが私を気遣ってくれるのは解る。その優しさが却って罪悪感を刺激した。唐突に脳裏に閃く。
 私が田島君と付き合えばそれですべてが丸くおさまるのだろうか。
 花井君と田島君がぎくしゃくすることもない、水谷君や阿部君や千代ちゃんが余計なことに気を配ることもなくなる、田島君も多分満足する。
 私ひとりが犠牲になればいい。
 視線を落とした先、リノリウムの床は朝の光を反射して薄く発光して見えた。



 あの場から逃げるための口実だったはずなのに、私はベッドの住人として午前中を過ごした。
 保健室に着くと開口一番「顔色が悪いわね」と保険医から体温計が差し出されたのだ。云われるままに熱を測ると微熱があって、私は半ば強制的にベッドに押し込められた。
 眠くなどないと思っていたのに、うとうとと浅い眠りを繰り返した。夢はみない。校庭から響く声や微かな椅子の軋みで何度もまどろみは途切れた。その度にぐるりと周囲に張り巡らされた白いカーテンの隙間から覗く時計によって時間の消失を意識する。
 けれど、このとき目蓋が開いたのは音の所為ではなかった。額の上の温かなぬくもりが私に覚醒を促したのだ。
 田島君が、いた。
 目が合うと黙って手のひらを退かす。
「これ飲む? ウマイよ」
 相変わらず相手の状況など斟酌した様子のない笑顔。私の額に置いていたのとは反対の手には紙パックのジュースが握られていた。
「……どうして私なの」
 乾いた唇から問いが零れた。
 肘を使って身を起こす。田島君をまっすぐ見上げる。
 また勝手に触れられていたというのに、腹立たしさも嫌悪も湧いてはこない。だって、てのひらが伝えてきたぬくもりは花井君が私にくれたものと同じくらい優しかった。優しくしようと思えば出来るのだ、田島君も。それなのに酷いことを平気でする。田島君を突き動かしているものの正体はなんなのだ。私への執着の理由が知りたかった。
「どうして私なの」
が好きだから」
 再度問いかけると、鮮明な声が降ってきた。
 田島君がベッドに両手を突く。シーツの端からジュースが転がり落ちて鈍い悲鳴を上げる。また至近距離から瞳を覗き込まれた。どうしてこの人はこうなんだ。身を引けばその分だけ黒い瞳が追いかけてくる。
が好きだからだよ。それ以外に理由なんて、ない」
 まだ少年らしさを残しているはずの声が低く掠れる。
 急に二人きりだということが怖くなった。カーテンの向こう、いるはずの保険医の気配はない。身を硬くした私に気付いたのか、田島君は倒していた上体を起こして一歩下がった。
「安心していーよ。もう無理に抱きついたりしねーから」
 軽い口調でそう云って、床からジュースを拾い上げる。
 私はベッドの上で自分自身を抱きしめた。田島君はやっぱり怖い。花井君とは全然違う。花井君は異性なのに感性が近くて、些細なことでも共感し共有出来た。でも田島君は全然違う。同じ言葉を口にしているはずなのに話が通じる気がしない。それが怖い。
「だから、私の何が」
は花井の何が好きなのかって訊かれてすぐに答えられんの?」
 思わず瞬く。即答出来なかったことを隠したいと咄嗟に思った。私は今質問に答えられなかったのではなく、質問の内容に戸惑ったから口篭っただけ、そういう顔を繕う。
「当たり前じゃない」
「じゃあ、教えてよ」
「花井君は……」
 私は花井君が好き。それは揺るがし難い事実だ。なのにどうして言葉が続かないのだ。田島君の視線が痛い。その眼差しの所為で私の咽喉は余計に縮こまる。
 田島君はそんな私を前にしても勝ち誇ったりはしなかった。ベッドの足元に腰掛けると、器用にも手の中でくるくると紙パックを回転させる。
「確かにさー、花井はかっこいいし背ぇ高いし頭もいいよ。ちょっと怒りっぽいけどいい奴だし。んでもって、キャプテンだし責任感あるし、野手としては強肩だし、バッターとしては今んとこ勝負弱い感じだけどそのうち克服するだろうし、全体的に見て良い選手だと思うよ、俺には負けるけどさ」
 最後の台詞、花井君を侮辱された気がして私は目元をきつくする。田島君は肩を竦めて、ジュースを天井に向かって放り投げた。
 私の上に落ちてくる。
 反射的に目蓋を閉ざしたが何時までたってもぶつかってこない。目を開けるとジュースは田島君の手の中で、彼は再び私の真横に立っていた。
 からかわれた、そう思って腹が立つ。だいたい私は私が花井君をどう思っているかを話したかったわけじゃない、そうじゃない。
 やっぱり私は犠牲になどなりたくなかった。
 昨日の今日だから、田島君がこれ以上余計なことをしなければ私の恋はまだどうにかなるのではないかという淡い希望に縋りたかった。だから話をしようとした、けれどやっぱり駄目だ。諦めるよう上手く説得出来る自信がない。
がそういうのがいいなら俺はゲンミツに努力するよ」
 人の気も知らないで田島君はまたわけの解らないことを云い出す。
「背が伸びるよう今よりもっと牛乳飲んで坊主にして勉強もしてみんなに頼られるような奴になるよ、花井みたいな」
 笑ってしまった。
 自分でも驚くくらい高慢な笑い方だった。
「馬鹿みたい」
 頑張って花井君に近付いたからってそんなことに何の価値があるというのだ。本物がいるのに、花井君がいるのに、私が心を動かすわけがない。
「そんな偽物、いらない」
「うん、だろ」
 吐き捨てた台詞に返ってきたのが肯定で私は戸惑う。
 私は顎を上げた。
「真似したって、どんだけ頑張ってそいつになろうとしたって本人じゃないとムリなんだろ。それとおなじで優しいからとか可愛いからとか、そんな理由を並べてなんになるんだよ。どこが好きとか、だから好きだとかって、そういうコトバになんの意味があんのさ」
 田島くんの眼差しはいつだって揺るがない。声で、言葉で、意思で、その存在で人のことを揺さぶって巻き込むくせに自分は揺るがない。私は抗う為に唇を噛む。
 田島君はそんな私をじっと見下ろして、再び託宣のごとく静かに告げた。
「俺はが好きだよ」
 嘘だ、嘘だ。そんなのは嘘だ。
 なら何故私はこんなにも苦しいのだ。
 気がふれたように大声で叫んでやりたい。
 私のことが好きだというのならだったらどうして。
 昨日のことが脳裏に甦り、傷口が再び開いて血を流す。
「なら、どうして私を傷つけるの?」
 世界中に聞こえるような音量で糾弾してやりたいのに、私の声は脆く震えていた。
 私は田島君を認めない。
 田島君のように相手を傷つけるものが好意だなんて、そんなもの私は信じない。
 だって、好きっていう気持ちはもっと優しいものではないのか。穏やかで甘くて温かで、相手を思いやるようなものではないのか。
 何故相手を傷つけることが出来る。何故相手を哀しませることが出来る。
 どうして私の心を破壊するようなことが田島君には平気で出来るのだ。
「田島君の言葉なんか信用できない、好きならどうして私を苦しませるの、本当に好きならそんなことしない、出来ない」
が花井のものになるくらいなら嫌われた方がマシだからだよ」
 胸が苦しいのは一息にたくさんのことを吐き出した所為なのか、それとも泣くのを堪えている所為なのか、田島君の台詞の所為なのか。
 一層唇を噛み締める私をぴたりと見据えたまま、田島君はまた淡々と言葉を紡ぐ。言葉を織る為だけに存在する道具にでもなったようにも見えたし、当たり前の事実をどうして私が理解していないのかを憐れんでいるようにも見えた。
「俺は嫌だ。みたいに見てるだけで満足なんて無理。本気だから絶対手に入れたい。手に入らないならそんな想い全部無駄じゃんか」
 無駄、という響きに背筋がざわめいた。
 殴りたいと思った。嫌だった。すべてを否定された気がした。花井君への想いも私の恋のやり方も何もかも全部をぐちゃぐちゃに踏み荒らされた気がした。
 結んでいた唇をほどき息を吸う。吐く。
 さっきとは違う、痛みの為ではなく怒りで声が震えた。
「好きだったら何でもしてもいいと思ってるの?」
「違う。好きだからなんでもするんだ」
 睨み付けても田島君は表情を変えない。これが自分だったら、と思う。私なら花井君に睨まれて平静でなどいられない。そもそも花井君にそんな顔させない。やっぱり田島君はおかしいのだ。
 田島君は、どこか壊れている。
「自分でもひでーって思うよ。でも俺はを傷つけてでも手に入れたい。本当は泣かせたりしたくない、でも、そうしないと手に入らないなら俺はを泣かせるよ」
 何てことを云い切るのだ。
 呆然と目を見張る私の視線の先、田島君が唐突にすうっと流れるようにベッドから離れる。
「手段とか、そんなもの選んでる余裕なんてないくらい俺はのこと好きだから」
 白いカーテンに飲まれて田島君の姿が消えた。
 同時にがちゃりとドアの開く音がする。
「うわっ、なんだ田島君か。あー驚いた」
「ちわーす、さーせん湿布貰いにきましたー」
「勝手に入らないでよ、もー。はいこれ、記入してよね」
「あざーす」
「ていうか授業どうしたのよ」
「自習でーす」
「本当に〜?」
 だらけた会話を聞きながら肩の力が抜けていく。
 シーツの上にジュースが取り残されていた。落ちたときに潰れたのか角が一箇所陥没している。バナナオ・レだった。私も花井君も好きなやつ。田島君がそれを知っていたのかは解らない。
 私は抱えた膝に額を埋め、田島君が去るのを待った。
 
 
 結局、私が教室に戻ったのは昼休みになってからだった。
 でも、そのおかげで殆ど注目を浴びずにすんだ。席に着くと溜息が零れる。微熱は殆ど下がったが私は疲れていた。身体がだるい。

 昨日まではその声で名前を呼ばれると嬉しくて仕方がなかった。なのに今は少し胸が痛い。
「大丈夫か、あーその、いろいろと」
 眉間に皺を寄せながら私の方に身体を向けて椅子に座る。
 全然大丈夫じゃないよ、花井君。
 自分の頭の中で呟いた台詞がなんだか滑稽で笑ってしまう。花井君はそんな私を見て僅かに頬の力を緩めた。私は握ったままだったジュースを差し出す。
「あのね、これ、田島君がくれたみたいなんだけど、私今飲めそうにないから貰ってもらえる?」
 本当は教室に戻る途中、捨ててしまうことも考えた。
 飲む気にはならず、置き去りにすることも出来ず、ゴミ箱にの上かざして数秒迷った挙句私は放り込むことが出来なかった。
 捨てることは田島君の見せた小さな優しさのかけらまで粉々に砕いてしまうような気がして、どうしても出来なかった。
「田島が?」
 花井君は怪訝そうに私の手元を見詰めた。捨てられないからあげてしまう、そんな自分の行為が奇麗事のように思え、罪悪感を覚えていた私は花井君の逡巡に不安になる。
「どうかした?」
「ああ、いや」
 はっとしたように顔を上げ、花井君は私の手からジュースを受け取った。
「俺もこれ好きだけどあいつも確かこれ好きでさ。人の皿まで舐めるような奴が、自分の好物やるなんて天変地異の前触れかよ、とか考えちまって」
 身体の内側で大きな波紋が広がっていくような感じがした。私は多分後悔したのだ。田島君は嫌いでも彼の温もりだけは無下にしたくない、私は田島君とは違うのだからと変な意地を張り、その実私はもっと無神経なことをしている気がした。
 花井君は大きな手の中で紙パックのジュースをくるくると弄ぶ。さっき田島君も同じようなことをしていた。花井君は何か考え込んでいる様子で、私は波打つ心をなだめようと黙って彼の手の動きを目で追う。硬い爪が短く切りそろえられた長い指。以前、日に焼けた無骨な手を綺麗だと褒めたら「そっかぁ?」なんて首を傾げていた。
 その手が止まり、机の上でとんと軽い音を立ててジュースが着地する。
 私は指先から視線を上げた。花井君は相変わらず物憂げに眉を曇らせている。瞳を合わせるとますます眉間に皺が寄った。一度口を開きかけ、閉じる。俯いて嘆息して、花井君は意を決したように顎を上げた。
「あのさ、あんま田島のこと嫌わないでやってくれねーかな」
 心臓が止まるかと思った。
 頭の奥に痺れるような感覚が広がっていく。言葉なんて空気と同じで触れられるものではないのに、本当に殴られたような衝撃があった。
 花井君までそんなことを云うのか。私に田島君を好きになれ、そう云いたいのか。
 よっぽど私は酷い顔をしたのか、花井君が慌てて身を乗り出す。
「いや、無理ならいいんだ、無理なら! ただアイツもちょっとバカなだけで根はいい奴なんだ、ほんと。ただ今回はやり方間違えたっつーか」
 聞きたくない。聞きたくない。
 そんなことは聞きたくない。
「止めてよ、私は」
 あなたが好きなのだ。
 云い終える前に、花井君が右目を眇めた。
 まるで痛みを堪えるようなその表情に言葉が咽喉に痞えた。無意識に伸ばしかけていた腕を下ろす。
 今、私が好きだといってしまえば、花井君は板挟みになるだけだ。
 それは花井君を苦しめるだけだろう。
 私は田島君のようにはなれない。なりたくない。
 自分の感情を押し付けて、相手に苦痛を強いるようなことしたくない。
 愛情、罪悪感、痛苦、自己嫌悪、希求、不快感、反発、思慕、すべての感情が嵐のように絡まりあう。
 けれど、たったひとつ結論が出てしまった。
 私の恋は終わらせるしかない。
「ううん…なんでもない…」
 自分という存在全部がからからに乾いてしまったかのようなのに、普通の声が出せることが不思議だった。
 花井君はまた何かを云いかけ、けれどその唇は何も語らないまま再び閉ざされた。
 都合よくチャイムが鳴る。花井君との会話を切り上げられることに胸をなでおろす日が来るなんて思いもよらなかった。
 雑然とざわめいていた四角い箱の中は整然と静まりかえる。それを待っていたかのように教師がやってきて教科書を開くように命じる。教科書を適当に開く。教師の声は全然耳に入ってこない。身体のだるさが増している。熱が再び上がってきている気がした。けど、頭がぼんやりと霞んでいるのは熱だけの所為ではないのだろう、きっと。
 今更云っても遅いけれど、もしも私が一昨日花井君に好きだと口にしていたらこの未来はなかったのだろうか。私は見ているだけでいいと思った。それだけで幸せだった。それは本当だったけど、でも臆病で想いを告げるだけの勇気がなかっただけなのも本当だ。もし、私が勇気を出してきちんと好きだと告げていたら結果は違ったのだろうか。
 そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。
 どの道もう取り返しがつかない、私にはもう永久に手が届かない幻想だ。
 私の恋は捨て去らなければならない。胸に抱えたこの想いは報われることはない。だとしたらそれはもう田島君の口にした通り無駄なものなのだろうか。
 教室の中は今日も平和で何も変わっていない。
 なのに私の目には世界はぐらぐらと揺れて映った。



 その声にゆっくりと振り返る。
 最早身体は泥のように重くなっていた。私の顔を見て田島君は怒ったように口元を曲げる。
「なにやってんだよ、具合悪いのにこんなとこで。親に迎えに来てもらえねーなら送ってってやるから早く帰れよな」
 ユニフォーム姿でずかずかと教室を横断してくる。歩くのが速い。もう私の目の前に来た。額に伸ばされた手を振り払う。私は立ち上がった。田島君は一瞬机に視線を走らせ、私の座っていたのが花井君の席だったことに気付いて鼻の頭に皺を寄せる。
「ねえ」
 私は田島君から離れて窓に寄りかかった。たったそれだけのことにずいぶんと体力を消耗したような気がする。
「無駄って云ったよね。自分が好きだから花井君は私のことなんか好きにならない、だから私が花井君を想うのは無駄だって」
 人気のない教室に声が跳ね返る。ここに居れば現れると思っていた。放課後、部活に行く前に声をかけてくれた千代ちゃんに「まだここにいる」って云ったから。田島君ならそれを聞いたら様子を見に現れるって、熱に浮かされた頭には変な確信があった。
 ガラスに頬を押し当てると冷たくて気持ちがいい。私は目を細めた。熱がある。本当は田島君の云う通りさっさと家に帰るべきなのだ。でもその熱以上に熱い怒りや哀しみが膨らんで充満していて、それを田島君にぶつけずにはいられなかった。
「私は別にいいよ、無駄でも」
 花井君の机の傍で、田島君は黙って聞いていた。
「なにか見返りがなきゃいけないの? どうして想うことが無駄なの? 私は別に構わない、何も返ってこなくてもいい、見返りを期待して誰かを好きになるなんて、卑しい」
 実らないから捨てるなんて出来ない。
 恋とはそんな打算的なものではないはずだ。
 見返りがないから諦めるというのは理由にならない。
「花井君は私を好きにならない、私は花井君に告白なんかしない、でも私はずっと花井君を好きなままでいる」
 口を閉ざしたら崩れ落ちてしまいそうで私は喋り続ける。
 確かに私は自分の恋を捨てると決めた。だが、花井君を好きでいることを止める必要まではないはずだ。私は想うだけで花井君に迷惑はかけない、田島君のように傷つけたりしない。何も問題はないはずだ。
 解ってる、こんなの詭弁だ、でも、それでも想いを告げない代償にそれくらいは許して欲しかった。
 私は息を吸い込んだ。
「だから、田島君を好きになったりしない」
 教室に静謐が訪れる。
 田島君は私を嫌いになればいい。私が好きにならないのなら、彼の想いは田島君が云うところの『無駄なもの』だ。だからさっさと見切りをつけて諦めればいい。そして私にもう近付かないで欲しかった。
 それが私の望み。恋を壊された私の精一杯の報復。本当は田島君を傷つけてやりたくて、大嫌いだと罵倒してやりたかった。でも、やっぱり本人を目の前にすると私には無理だった。私が優しい女の子だからとかそんな理由じゃない、朝のように誰かの背に隠れてならともかく面と向かって云えないだけ。私はただ自分の言葉で誰かを傷つけるのが怖いだけなのだ。
 黒い瞳はまっすぐで揺るがない。田島君はやっぱり私の言葉に表情を動かしたりしなかった。何からも影響を受け付けない。今も花井君のように自分の意見を口にするのに躊躇っているわけではない。ただ自分の内側にあるものを探って、私に伝える為に形になるのを待っているように見える。
 不意に田島君に何かを伝えることの方がよっぽど無駄なことに思えた。
 可笑しくもないのに笑い出しそうになる。泣き叫んでみたくもなった。ああ、きっと今の話も通じてなどいないのだ。田島君は嵐みたいな存在だ。他人を翻弄することはあっても、自分がもみくちゃになることはない。そんな人が私の言葉で揺さ振られたり傷ついたりするわけがないのだ。
 悔しい。どうしてこんな人間がいるのだろう。
 報復を望んだ醜さも、それを為し得ない臆病ぶりも、はっきりと拒絶すら出来ない自分の脆弱さもすべてが惨めだった。
 田島君なんてもう知るものか。帰ろう。
のは恋なんかじゃないよ」
 投げ付けられた台詞に起こしかけていた身体が竦む。
 田島くんの声は相変わらず明瞭で迷いがなくて、嫌だった。
 触れたら火花を散らしそうな空気を纏って田島君は私を見ている。
「ただ好きなだけでいるってどうすんの? 見てるだけ? なんで見てるだけでいいなんて思えるんだよ」
 嫌だ。
 田島君の話し方は私の方が間違っているような気にさせられるから、嫌だ。
 私の視線は床へと落ちた。その先には田島君の影があった。ゆらりと蠢く。近付いてくる。そういえば私は田島君から後退ってばかりだ。今も無意識に足が動いた。でも熱の所為かもつれて、窓に寄りかかることでどうにか身体を支えていた私はずるずると崩れ落ちた。
「好きなら触りたいって思うし、全部手に入れたいって思うだろ」
「やめて」
 私は耳を塞いで目を閉じた。そうやって弾丸のように打ち込まれる言葉から逃げた。
「私のことを否定しないで」
 だって、それが出来ないようにしたのは田島君ではないか。
 触れたかったし独占したかった。優しくされて特別に扱ってもらうことを夢見ていた。でもそれを全部壊したのは田島君だ。それなのにどうしてそれを叶えることを諦めた私を責めるのだ。
「自分と違うからって、どうして私が間違ってるっていうのよ!」
 渇いた咽喉で叫んだ。
 みっともないと思った。どうして田島君はこんな私に執着するのだ。
「…もう、止めてよ」
 目蓋の隙間から涙が零れる。
 私は田島くんのように強くない。
 これ以上私を掻き毟らないで欲しい。
「私のことをぐちゃぐちゃにしないで。私のなかに入ってこないで」
「嫌だ」
 手首を掴まれた。無理矢理耳から引き剥がされる。
なんかもっとぐちゃぐちゃになればいいんだ」
 両手を捕らわれた所為で田島君を振り仰ぐようになった。涙でぼやけた視界に漆黒の瞳で無慈悲に私を見下ろしている田島君の姿が飛び込んでくる。私は眉を顰めた。
 ああ。
 本当に云った通りになった。
 この人は私が泣こうが喚こうが本当に関係ないんだ。
 絶望が私の首を垂れさせたのかもしれない。項垂れて目蓋を封じると、暗闇の向こうから容赦なく揺るがない声が降り注ぐ。
「俺はが好きだ」
「聞きたくない」
 目を閉ざしたまま、私は手を振りほどこうともがく。だが、熱に侵された身体では到底田島君に敵うはずがなかった。
「好きだ」
「聞きたくない! 聞きたくなったら!」
「じゃあ、いいよ、聞かなくっても。でも、がいくら聞かなくたって俺のキモチは変わらないよ」
 田島君の声は鋼のように冷たくて硬質で残酷に私に突き刺さる。
 窓辺の片隅で私の立てる荒い呼吸の音だけが微かに空気を揺らす。
 男の子は好きな女の子に意地悪をする、という話を聞いたことがある。小学生くらいだとつい照れ隠しで苛めてしまうらしいが、これはそんな可愛いものじゃない。田島君は本気で私を引き裂いて叩き壊して原形を留めないくらいめちゃくちゃにしようとしている。
 私は肩で息をしながら目を開けた。涙が落ちたけれど泣き顔を見られても構うものかと思う。蹲る私の目の前に膝を折った田島君がいる。黒い瞳はまっすぐ私だけに向けられていた。
「好きだ」
 何故田島君は自分の心を曝け出すことを恐れないのだ。私は花井君が好きだからこそ隠した。想いを口にしてしまったらもう戻れなくなる、それが怖かった。胸が痛い。どうしようもなく胸が痛い。やわらかで甘い想いを私は大事にしすぎたのかもしれない。後悔が私の背を押す。きっと本人相手には一生告げることのない言葉を私は唇に乗せた。
「私は花井君が好き」
 私は人を傷つけるのが怖い。ましてや自分の言葉で傷つく人を目の当たりになんてしたくない。でも、大丈夫。だって、相手は田島君なのだ。効くわけがない。
「田島君じゃない」
 私は田島君を睨んだ。
 瞬間。
 田島君の顔が歪んだ。
「なんで花井なんだよ」
 泣き出す寸前の小さな子供みたいな表情を浮かべ田島君は私から顔を背ける。その様子に息が詰まる。動けなくなる。私はまさに虚を衝かれていた。
 田島君はいつも無機的に黒い瞳で私を観察していた。いつもまっすぐな視線を向けてきた。私の言葉に揺れることなどなかったくせに、どうして。
 どうして今更揺れるのだ。
 暗闇を固めたようだった真っ黒い瞳が今は濡れて潤んでいる。塞き止められていたものが決壊したかのように、彼の表情からは様々なものが読み取れた。哀しみも苦しみも痛みも、これまで押し隠してきたのにここに来て露呈してしまったことへの屈辱さえ伝わってきた。
 どうすることも出来なくて、私はただ田島君を見詰めていた。
 私の視線の先、引き結ばれた唇から掠れた声が漏れる。
「俺は花井にはなれない、ならない」
 掴まれた手首に力が篭る。痛んだが私は声を上げることも出来ずにただ田島君を見ていた。
 田島君は傷ついている。
 教室には薄闇が忍び寄り始めていた。床に座り込んだ私たちの輪郭は早くもぼんやりと霞んで見え始めている。そもそも十分な光源があったとしても目に見えることすらないはずなのに、田島君の周りに張り巡らされていたものが砂粒のように儚く剥がれ落ちていくのを私ははっきりと感じていた。
 花井君に比べたらずいぶんと細く映る田島君の肩が震えている。涙は無い、けれど田島君は泣いている。
 私には田島君を駆り立てていたものの正体が解ってしまった気がした。何故花井君の前でだけ私に抱きついてきたのかも。
 そして、田島君が私のことを好きだというのも本当なんだとどうしようもなく理解してしまった。
 田島君は決して鋼のように強いわけじゃない。
 私は花井君しか見ようとしなかったから、田島君をちゃんと見ようとしなかったから、だから田島君の黒い瞳の奥底にあった想いにこれまで気付こうともしなかった。
 田島君が私にぶつけた言葉の数々もそう。私に向けつつも、あれは彼自身に向けられたものでもあったに違いない。田島君の望みが強く反映された言葉の数々は魔法のように私を揺らしたが、彼にとってもすべてが真実だったわけではないのだろう。田島君は揺れる自分を止めるために私を非難したのだ。
 私を壊したのが田島君なら、その田島君を壊したのも私だったのだろうか。
 身体の中身が全部機械になってしまった気がする。どうすれば腕を動かすことが出来るのか思い出せない。ただ涙だけが溢れ出てくる。
 私は間違えたのだろうか。
 間違えたとしたら、それはどこでなのか。
 花井君を好きにならなければ良かった? 田島君に好かれなければ良かった? 花井君ではなく田島君を好きになっていれば良かった?
 そのどれでもない気がした。
「好きだ」
 田島君が小さく呟く。
 手首を戒めていた力がじわりと緩んだ。人形のようにぱたりとスカートに落下した私の手を田島君は包み込む。冷たい手だった。
 神聖な儀式に臨むように田島君はそっと顎を上げた。濡れた黒い瞳は水を張ったようで、その奥底には様々な感情が渦を巻いている。私の目をまっすぐに見ている、なのに田島君の眼差しは確かに揺れていた。
「だからも俺のこと好きになってよ」
 私は承諾も拒否も出来なかった。
 そんな私をしばらく眺めて、田島君は哀しげに瞳を伏せてゆっくりと手をほどいた。