最初は怖い人だと思った。
 だって、背が高くて身体は大きいし坊主頭だし。
 けれど、すぐに真面目で責任感があって面倒見がいいことが解った。
 優しい人だ。ちょっと気が短いところがあるけれど、困っている人は放っておけない。泣きつかれるとどうして俺がと最初は反発するくせに、重ねて拝まれればああもう分かったよってあっさり折れてしまう。舌打ちとかしてみせてもその頬は微妙に嬉しそうだったりして、本当は頼りにされて満更でもないことが窺える。本人に云ったらきっと怒るだろうけれど、よくおっとりしていると云われる私からみてもお人好しだなあって思う。
 本当に、いい人。
 私は目を細めてその人を見た。
「ん、逆光か? 眩しい?」
 花井君はその大きな身体を少しばかりずらして、わざわざ窓から差し込む光を遮断してくれた。私の全身が花井君の影で包まれている。この人の身体はその影で私を覆いつくしてしまうほど大きいのだ。今更とも思える事実を意識してしまって、少しばかり心臓の活動が活発になった気がした。
「でさ、おもしろかったろ、これ」
 裏表のない快活さで笑う。貸してくれた文庫本を私が『面白くなかった』なんていう可能性を微塵も考えていない様子に頬が緩む。私と本の趣味があうと花井君も認めてくれているようで何だか嬉しくなる。
 花井君の本はカバーがきちんとかけられていて、中身も皺や折り目などなくてまるで新品のようだった。野球部でありながら花井君は成績も悪くない。部活と勉強を両立させ、おまけに読書もしているなんて実は花井君だけ一日が三十六時間なんじゃないかと疑いたくなる。
「うん、面白かった。ありがとう。あとこれ、この間云っていたやつ。お父さんが学生の頃に買って、特に大事にしていたわけでもないから汚くてごめんね」
「マジ!? サンキュ、うお、マジで初版じゃん、すっげー!」
 ぶっきらぼうな口調にももう慣れた。それは荒々しさではなく、彼が誰に対しても上辺を飾ろうとしないだけなのだと気付いたから。低い声はときどき、本当にときどき、酷くやわらかくて優しげになる。それが好きだ。
 いつの間にか私はこの人を好きになっていた。
 授業中に指名され、教科書を読み上げるその声に私はいつの間にか聞き惚れる様になっていた。
 でも、その気持ちを伝えるつもりはない。
 怖いから。
 疎ましく思われて今のように話せなくなるのが怖い。好きだと告げてもし嫌な顔をされたり笑われりしたら一体どうしたらいいのだ。だから、云わない。
 それに友達でも十分ではないか。無理に恋人になんてならなくてもいい。こうやって好きな本のことを語り合って、穏やかな時間を共有できるだけでいい。
 私は今のままでいい。
ー!」
 その声にびくりと震えた。背後から軽快な足音。文庫本から目を上げた花井君が「あ」と顔を歪ませた。非常に嫌な予感がする。けれど、逃げるより先にがばあと背後から抱きすくめられた。咽喉の奥がひっと鳴る。
「ぃやぁあぁあぁぁぁぁっ!」
「たじまぁぁぁぁー!」
 私の悲鳴と花井君の罵声はほぼ同時だった。


 頭のすぐ後でごちぃんという物凄い音がした、というより音と同時に私の身体にまでその衝撃が伝わってきた。いってーという声が上がり一気に肩が軽くなる。半泣きの私の腕を掴むと、花井君は乱暴に引き寄せて自分の背後に押し込んだ。私の位置から花井君の顔は見えなくなったが、仁王立ちで田島君を見下ろしている辺りからしておそらく鬼の形相に違いない。
「田島! 俺に飛びつくのは百歩譲って我慢してやるからに抱きつくのは止めろって云っただろ! お前も解ったって云ったじゃねーか! つか、昨日の話だろ、これ! なのに何でまたやるんだよ、おまえってやつはぁぁぁ!」
 頭を抱えて蹲っていた田島君がびよんとバネでも付いているみたいな勢いで立ち上がる。あれだけの音がしたのだ、相当に痛かったのだろう。思い切り涙目になっているのにちょっと可哀想になったが、次の台詞に私は脱力して花井君の方に倒れそうになった。
「だってなんかの背中見たらムラムラしちゃったんだもん!」
「しちゃったもん、じゃねぇだろうがよぉぉぉぉ! ムラムラもするな! 校内でのムラムラ禁止!」
「ムリだよそんなの! ムラムラしないなんてムリムリ! 花井はできるの、そんなこと?」
 田島君の黒目がちの大きな瞳がきょとんと瞬く。
 例えば相手のペースを乱す為とか、事をうやむやにしようと狙っているとか、そういうのは一切なくて純粋に本心から田島君がそう思っているのがその目を見れば明らかだった。
 しゃきんとしていた大きな背中が、途端にへにゃりと脱力していく。
「……つうか無理だと云い張るお前がわっかんねーよ、俺は……もういい、自分の教室に帰れ。んで、もう来ないでくれ」
 右手で額を押さえつつ、左手で野良犬でも追い払うようなジェスチャーをする。結構辛辣な扱いだと私なんかは思うのだが、肝心の田島君の方は「何だよ感じわりーな」と唇を尖らせただけで特に堪えた様子はない。
 なんていうか、見ている分にはこの二人のやりとりは厳格な兄と奔放な弟のようで微笑ましい。自分に実害がなければ本当に心から笑顔で見守れるのに、と溜息が漏れる。
 確か私が花井君と本の貸し借りをし始めた頃だ。以前から田島君は同じ野球部の花井君や阿部君、水谷君を訪ねてこのクラスにはよく遊びに来ていたのだが、何故か偶々そのとき花井君と一緒に居た私にまでちょっかいをかけてくるようになった。『なにか食うもん持ってねー?』が第一声だったはずだ。それが何故か最近ではいきなり抱きついてくるようになったりして、笑って許せる範囲からちょっと逸脱し始めている。
 でも、そういうことをするのは花井君が一緒のときだけだ。すると必ずさっきみたいな鉄拳制裁を加えられることになる。もしや田島君にとって『私に抱きつく→花井君に怒られる』という一連の流れが一種の遊びなのかなあと私は疑い始めている。
 別に田島君のことは嫌いじゃないが、好きな人の前で抱きつかれるのは正直迷惑だ。けれど、怒っても田島君はあの調子だしどうしたらいいのやら。
 さっきより大きな溜息を零しつつ、顔を上げてどきりとする。
 田島君がまっすぐに私を見ていた。
 感情の消えた真剣な顔。いつもくるくると表情を変える黒い大きな瞳までも静止させて私だけを見ている。
 いつもにこにこしてる印象しかないからその貫くような眼差しが余計に鮮烈で、見透かされているようで背筋が寒くなる。
 知らぬ間に後退りしていたのか、踵が壁に当たる感覚に肩が跳ねた。同時に田島君が破顔して私に向かって右手を突き出す。
、教科書貸して! 古典!」
「え……」
 その落差に反応が遅れる。
 獲物を冷静に観察しているライオンのような雰囲気は田島君からはもう微塵も感じられない。まだそれほど身体も大きくなくて、鼻の頭にそばかすがあって、無邪気で元気ないつもの田島君がそこにいた。
「あー貸さんでいいぞ、。こいつに貸すと落書きかぱらぱら漫画かヨダレのどれかがもれなくついてくる」
「花井はうるさいなー。そんなんだからハゲちゃうんだぞ」
「これはハゲじゃねーよ!」
 毒気を抜かれて、私は自分の机から古典の教科書を取り出す。差し出すと田島君は「サンキュー!」とあっさりと退場していった。
 まるで嵐のようだ。
 そう思って顔を上げると花井君と目が合った。お互い何となく苦笑して、鳴り出したチャイムに背を押されるように席に着く。
 花井君が窓際の前から五番目で私はその右隣だ。
「うちの四番が申し訳ない」
 教科書を出していたらそんな声が聴こえてきた。憮然とした口調のくせにその響きにはどことなく愛情が滲んでいる。なんだかんだ云っても花井君は田島君のことが嫌いではないのだろう。
 私はひとり勝手に嬉しくなる。やっぱりこの人のこういうところが好きだと思う。
「手、痛くない? 凄い音だったけど」
「……実はすっげ痛いんですけど。あいつ超石頭でやんの」
 秘密を共有しあうみたいにくすくすと笑う。
 他愛もない会話に幸せを感じる。
 私はそれで十分だった。


 みんなが昼食を食べ終えた頃になっても田島君は現れなかった。
 次の時間が古典なので返してもらわないと私が困ったことになる。休み時間はあと十分。自分で返してもらいにいった方がいいだろうか。
 私が再び壁の時計を見上げたところで、ふと花井君が顔をこちらに向ける。私の机の上と時計の間で視線を往復させると渋い面持ちになった。阿部君たちとの話を切り上げ、私の元へとやってくる。
「今取り返してくっから、わりいけどちょっと待っててくれ」
 花井君が謝る必要なんてないのに。
 でも、私のことを気に留めてくれていることが嬉しい。少しばかり眉の下がったその顔ですら愛しくて、また『好き』という言葉が胸に溢れた。
 花井君は早くも教室を出て行こうとしている。私は慌ててその長身に追い縋るとシャツの背を掴んだ。
 足を止め、目で「どうした」と問いかけてくる。何だが凄く恥ずかしい真似をしてしまったような気がして頬に熱が上ってきた。
「一緒に行く」
 一緒にいたい、少しでも。
 握りこんだ手を開いて皺の寄ったシャツを撫でて伸ばすと、花井君はくすぐったそうに身を捩った。そして笑いながらぽんぽんと私の頭を撫でる。
「いーけど、あんまあいつに構うとお前まで田島係にされちまうぞー」
「それは……ちょっとお断りしたいかも……」
 正直にそう告げると、花井君はますます笑った。
「悪い奴じゃないんだけどなー」
「うん、それは私も解ってるの。でも、言動が予測不能っていうか意味不明っていうか」
「そう! そうなんだよ! あいつ、バッターボックスじゃすげえんだ、集中力も判断力もなにもかも天才ってこういう奴のこというんだってくらい別格でとにかく凄いんだよ、なのになんで一歩グラウンドを出るとあんなにバカになるんだよ!」
 花井君が歩きながら器用にも頭を抱える。私はそんな花井君が可笑しくて可愛くて、ついさっき自分がされたようにその頭に手を伸ばしてしまった。
「大変だね」
 花井君が背を丸めていたから簡単に手が届いた。手のひらにざりっとした感触。触れた途端、ばっと花井君が身を起こした。大きく見開かれた瞳と視線が絡む。
 怒らせた?
 瞬時に胸が冷たくなる。花井君の瞳の中は空っぽで嫌悪も憤怒も詰まってなどいなかった。だけど、意表を突かれたその様子に自分が彼の許容範囲を超えたことをしてしまったんじゃないかと怖くなる。
 嫌だ。嫌われたくない。謝らなきゃ。
「ごめん」
 余計に頭が真っ白になった。今のは私の台詞ではない。花井君だ。自分のしたことと花井君の台詞の両方に益々私の狼狽は酷くなる。
「え、なんで、どうして花井君が謝るの。私の方こそ勝手に触ったりしてごめんね」
「いや、マジでごめん、なんかびっくりしたというか、人にすることはあっても人にされたのはウン年ぶりだったからビビったというか」
 花井君の口元を長い指が覆っている。その間から僅かに覗く頬は微かに赤い気がした。
「ああ、うん、やっぱ驚いた、だな。感じ悪くてごめんな、多分次は大丈夫だからよ」
 次、って。
 また触れてもいいのだろうか。
 私に触れられても嫌じゃないのか尋ねてみたくなる。私だから許してもらえたのではないかとか、そんな都合のいい解釈をしたくなる。
 真冬の湖に放り込まれたようだったのに、私の心は単純にも春の陽気を取り戻していた。
 花井君が私の指を拒否しなかったことが嬉しい。花井君と一緒に居られることが楽しい。頬が緩むのが止められない。
 きっと今私の顔には花井君が好きだと書いてある。それを少しでも隠すために、私は瞳を細めて何気ない会話を取り繕う。
「花井君、背、高いもんね」
「ちなみにまだ伸びてる。おい、田島ー!」
 田島君は九組でウチのクラスの二つ先。だから花井君なんかは慣れているのだろう、扉の前に立つなり何の躊躇もなく大きな声を出す。
 一方、田島君の席がどこかも知らない私は、ぐるりと教室中を見回して漸くその姿を発見した。
 あれっと思う。
 田島君は胸の前で腕を組み、机の真ん中に置かれた教科書を真剣な表情で見詰めていた。机の上の教科書、あれは私の貸した古典の教科書だ。それを何故あんな顔をして眺めているのだろう。私は内心首を傾げた。
「田島の奴、聞こえてねーのか」
 花井君の声ははっきりしていてよく通る。今も呼ばれた本人ではなく周囲の人間が思わずといったふうに振り返ったほどだ。それなのに、田島君はぴくりともしなかった。私はほんの数分前の花井君との会話を思い出す。田島君はバッターボックスじゃ集中力が凄い、って話。でも、ここはバッターボックスなんかじゃない。私は何となく不安になる。
 花井君は嘆息すると教室に足を踏み入れた。私も後に続く。
「おい、田島」
 ばっと鋭い動きで田島君が顎を上げる。どこまでも黒い大きな瞳が最初に花井君を射抜いて、次いで私に向けられた。強い眼差しに怯む。私は朝と同じように後退りそうになって、田島君も朝と同じように一瞬でその鮮烈さを笑顔で掻き消した。
「なんだよ、二人揃って」
「なんだよじゃねーよ、それだよそれ。ウチのクラス次古典なんだっつーの」
 花井君が呆れた口調で机の上を指差した。田島君はああと曖昧に呟くと机の上に視線を落とす。
 やっぱりらしくないなと思う、でも、そう思った矢先にいつも通りのにかっと音がしそうなくらいの笑顔で教科書を差し出される。
「はいこれ、サンキューな」
 ぱっと見た感じでは何の変化もないことにほっとしてしまう。
 私は両手を伸ばした。違和感を覚えはしたものの、そもそも私はたいして田島君を知りもしないのだ。同じ野球部の花井君が変な顔をしていないのだから、私が気にする必要はないだろう。
 教科書の表面に浮かぶ古典の文字を視線で辿りながら、私はもう田島君の些細な齟齬のことなど早くも意識の俎上から振るい落としていた。
 教科書が彼の手から私の手へと受け渡される。
 たったそれだけの簡単なことのはずだった。
 なのに、教科書が私と田島君の間で静止している。まるで私を責めるみたいに教科書は重さを増して彼の指先に留まった。
 予期せぬ事態に目を見張る。でも、それは本当に一瞬のことで、顔を上げたときには田島君はいつもの屈託のない素振りで花井君に接していた。既に教科書は私の手にあり、彼の指を離れている。
「ったく、次からは自分で返しにこいよ」
「悪かったよー。んじゃな、!」
 軽い困惑に陥っている私を訝しむこともなく、田島君は快活に云い放つ。私はこくりと頷くしか出来なかった。
 狐につままれたような気分のまま、花井君と肩を並べて自分のクラスに戻る。
「落書きとヨダレの確認しておけよ、
 私は苦笑しながらもどこか安堵していた。冗談を交わしていると、田島君に感じた違和感もさっきの意図の不明な行為のこともすべてが気のせいに思えてくる。
「涎は大丈夫みたい、どこもくっついてないもの」
 何気なくぱらぱらと教科書を捲っていく。ほんの十センチ隣で花井君が笑う。頭上から降ってくるその声が好きだと思う。愛しいと思う。私も笑おうとした。






 オレはが好き 

 余白に書かれた紅い文字。
 小さな文字で、それなりに整っていて、彼の字にしては神経質な印象を与えた。
 らしくない、とか最初に思って。
 それから全身の血が物凄い速さで血管を駆け巡っているかのような、反対に遅々として流れが停滞してしまっているかのような、妙な感覚に襲われた。身体が熱くて重い。心臓の音が聞こえる。
「どうかしたか、。あ、ひょっとしてあのバカ下ネタでも書き込んでたのか?」
「え、ううん、なんでもない、大丈夫」
 私は大きく首を振った。
 ぱたんと教科書を閉じる。そのまま見なかったことにしたい。
 だって、私は花井君が好きなのだ。
 困る。
 そう、困る。内側からざらざらしたものを押し付けられているようで落ち着かない。どうすればいいのか。断るしかない、でもどうやって断ればいいのだろう。好きな人がいるって正直に告げればいいのか。でも、花井君と田島君は同じ野球部だ、もし相手が誰かを問い詰められたら不味い気がした。なら、冗談云わないでからかわないでと拒絶するぐらいしか思いつかない。こんな落書きみたいなもの本気じゃないよと考えもしたが、私には何故か確信があった。
 これが冗談なんかではないと、何故だか私は知っていた。


 放課後、田島君はやってきた。
「教科書、見た?」
 おかげで私は午後の授業にまったく身が入らなかったというのに、どこか得意げな表情に腹が立った。
 自分が田島君をあまり好きではないことがはっきりと解った。抱きつかれても花井君の友達だからと我慢した。花井君の友達だから好きになろうと努力してきた。本当は向けられる好意にも薄々感付いていた、でも、そんなわけがないと否定した。
 私が好きなのは花井君。田島君に好かれても嬉しくない。止めて欲しかった。
 これ以上近寄らないで、そう願う。
「冗談にしてはおもしろくなかったよ。もうからかわないでね」
 もっと言葉を選んで、本気だと気付かなかった振りをして、やわらかくうやむやにしてしまうつもりだった。それなのに、実際に田島君を目の前にしてしまうと私の唇から零れたのは冷たくて硬くて尖った響きのものだった。
 すうっと田島君から静かに表情が消える。
 私は自分の言葉に自分で驚いていた。さすがに酷いことを云ってしまった自覚があって、そんな酷いことを口に出来る自分自身に動揺した。まっすぐに突き刺さしてくる田島君の黒い瞳がさらに拍車をかける。傷ついた表情も見せずに、観察するみたいに私から視線を逸らさない。
 口にしてしまったことは取り消せない、かといって謝るのも違う気がした、誤魔化すには明るく振舞わなければならない、でも今の私には上手く笑う自信もない、黒い瞳が私を射抜いている。
「あ、あの、その、そうじゃなく」
 動転したまま意味のないことを口走る。田島君がふっと笑ったように見えた。皮肉げに、笑ったような気がした。
 無意識に後退る。
 けれど、田島君はそんな私を逃がさなかった。たった一歩で距離を詰めると、いきなり肩を抱き寄せられる。視界がぐるりと回って、私の視線の先に花井君が現れた。
「はないー!!」
 私とそう身長が変わらないのに、肩に置かれた手が鉄のように重い。動けない。
 花井君が目を丸くして私たちを見ている。
「俺のこと好きだから! お前とんなよな!」
 耳のすぐそばで大きな声。私の肩の骨が田島君の鎖骨にぶつかっている感じ。花井君は横に並ぶと肩の位置が全然違ったのに。田島君は花井君とはこんなにも違う。違う。違う。私の好きなのはこの人じゃない。
 しんと完全な沈黙が満ちた後、それを突き破るように教室中がわっと沸いた。四角い空間が無責任な口笛とひやかしの声で溢れかえる。
 私は迫りくる騒音に押し潰されそうだった。俯くと視界から花井君が消える。望まない注目に羞恥が募った。どくどくと心臓の音がする。どういう顔をすればいいのか解らない。
「花井のことは諦めた方がいいよ」
 その囁きからは感情が抜け落ちていた。
 平坦で抑揚を欠いていて冷静で、淡々と事実を告げるためだけにあるような声。思わず僅かに顎を動かすと額がくっつきそうなほどすぐ近くに黒い瞳があった。喧騒が一段と大きくなった気がする。反射的に身を引こうとするも無理だった。左手一本で私は容易く押さえ込まれている。
「花井はもう絶対にを好きにならない」
 声を潜めて、私の目を覗き込んでくる。
 そんなもの一度も見たことないくせに、私は狩りをする獣の目だと思った。
「俺がを好きだから」
 だから無駄だよ、と神託のように告げられた。
 私は愚鈍に瞬いた。目の前の黒い瞳は瞬きさえ忘れたようだ。どんな小さな変化も見逃すまいと、ひたすら私に視線を注いでいる。あまりにも揺るがないその目が怖い。私は身を捩ったが、未だ拘束は硬く外れない。だが、そのおかげで恐慌状態からは脱することが出来た、無遠慮に肩を抱かれていることに怒りが沸いてきたのだ。
 つらつらと勝手なことを並べられたことにも腹が立った。
 何故、田島君が私を好きだから、私が花井君を諦めなくてはならない。
 さっきから何を云っているのだ、と笑ってやろうとして私は失敗した。笑い飛ばしてやる前に不幸にも理解してしまったのだ。田島君の云う通りだということを。
 真面目でお人好しで潔癖なキャプテンはチームメイトの恋を邪魔するような真似はしない。例えばそれが自分も狂おしく焦がれた相手だったとしても、想い人が同じだと知ってしまった時点で彼の恋は終わるのだ。花井君は黙って見守るだろう。奪ったり争ったりなんてことはしない。彼のプライドにかけて死んでもしない。絶対に、しない。
 私が好きになったのは、そういう人なのだ。
 顔色の変わった私を一瞥すると、田島君はそっと力を緩めた。肩が軽くなったはずなのに身体は重みを増したような気がする。周囲の騒動をものともせず、田島君はしなやかに身を翻し「じゃあな!」と無邪気な笑顔で去っていく。
 残された私はのろのろと机に近付き、帰り支度を始めた。
、ごめんな」
 視線を上げると花井君が立っていた。柳眉を顰めて苦い顔をしている。花井君はキャプテンだから、田島君の行動にも責任があるから、だから私に謝っているのだろうか。
 何か熱いものが急激に胸の底から込み上げてきて身体が震えた。花井君の声に答える余裕がなかった。私は鞄を掴むと教室を飛び出した。
 走ると一層胸が苦しくなる。じわじわと蝕まれていく。灼熱のものが爪先まで詰まっている。すべてがぐちゃぐちゃで涙も出ない。
 これは失恋なんかじゃない。

 私は恋を、壊されたのだ。