「ただいま」
 身に染み付いた習慣から、玄関を開けると自動的にその言葉が口を突いて出ていた。中に入ると外にまで漏れていたカレーのにおいが一層濃くなる。腹が鳴り空腹を意識すると、疲労までもが神経の末端まで猛スピードで満ちていく。荷物を下ろし、僅かでも楽をしようと靴箱に体重をかける。
 靴を脱ごうとしていたら、玄関マットの上に音もなくぬっと白い足が現れて阿部は瞠目した。
「おかえり。今日はカレーだって。ひよこまめカレー」
「…ちわす」
 素っ気ない返答が気に喰わなかったのか、タオルで濡れた髪をかき回しながらが鼻の頭に皺を寄せた。まるで狙ったように毛先から阿部の頬へと水滴が飛んでくる。片目を眇めて手の甲でそれを拭うと、さらには「他には」と色のついた爪で阿部の足を蹴ってきた。
 仁王立ちしているに前を塞がれていては靴も脱げやしない。阿部は諦めて寄りかかっていた靴箱から身を起こし、三和土の上で後ろ手に指を組んだ。
「風邪ひくんじゃないスか、そんな格好でいると」
 が着ているのは素材は厚手なのに肩も露わなキャミソールとホットパンツだった。女子には可愛いと絶賛されるものであっても、阿部にとっては夏物なのか冬物なのか混沌としている変な服でしかない。淡いピンクと緑の縞模様も毛虫を連想させる。
 はさらに腹を立てたようで、無言で台所の方に歩いていってしまった。
 いつものことなので阿部も気にすることもなく、母親に声をかけてから風呂場に向かう。
 ドアを開けた途端に阿部は眉間に皺を寄せた。がついさっきまで入っていた所為だろう、脱衣所は微妙にいいにおいが漂っている。
 洗濯機に鞄から出した洗物を放り込み、さらに自分が着ていたものを脱いでは入れていく。ボタンを押してから浴室を開けると、一層甘いにおいがしてますます阿部は顔を顰めた。風呂の蓋を開けると予想通り変なピンク色をしている。人ン家の風呂に気持ち悪い入浴剤いれんなって抗議はするだけ無駄なことは阿部は知っていた。
 は母親の姉の娘、従姉だ。阿部の母親は伯母と未だに仲良くて、その娘であるのことも酷く可愛がっていた。のところは共働き家庭な上、当時は家が近かったこともあり阿部が小学生の頃は毎日のように顔を合わせていた。
 そういえば昨日、明日ちゃん大学授業がないらしいから一緒に買い物行ってくるわとか云っていた気がする。自分もああと返事をしたような記憶がおぼろげにあった。風呂まで入っていたということはは今日は泊まっていくつもりなのだろう。
 阿部は舌打ちをして湯船からあがった。
 纏わりつくにおいを落としたくてシャワーを浴びてから浴室を出る。
 タオルで水滴を拭い、下着を履いたときだった。
「ねえ、私のピアス知らない?」
 あっぶねえ。
 後一秒パンツ履くのが遅かったら。
 思わず硬直する阿部に構わず、は洗面台の前にしゃがみこむ。いらぁと阿部の身体から湯気ではなく怒気が滲む。
「ノックぐらいしてください」
「かたっぽないの、ゴールドにピンクの石のジュジュのピアス」
 低い声を出してみてもは顔すら上げない。コンタクトを外しているのか、闇雲に細い指が床を撫でている。籠の中のスウェットを手に取りながら、阿部は冷めた視線をに落とす。
「そうやってるとケツが半分出てますよ」
「ピーアースー」
 相変わらず人の話を聞きやしない。
 スウェットの紐を絞り、阿部は右手を洗濯機のすぐ傍の床へと伸ばした。
「どうぞ」
 差し出すとは笑顔を浮かべた。「おおエライエライ」と散々床をまさぐった手で洗ったばかりの頭を触ろうとしてくる。無言で指から逃げると、今日は珍しくそれで諦めた。
 でたらめな鼻歌を歌いながら持参していたマキロンでピアスを消毒し始める。
 Tシャツを着ると、阿部はさっさとそこを後にしようとした。だが、裾を掴まれてまたしても行動を阻害される。
 こっちは腹減ってんだよと半ば睨むようにを見下ろすと、阿部が渡したばかりのピアスを突きつけられた。
「なんすか?」
「つけて。コンタクト外してるから、鏡見ても上手くつけられない」
 本当になんでこの女はこうクソ我儘なんだよ。
 空腹が苛立ちに拍車をかける。それでもここで口論するよりも云うことを聞いてしまった方が面倒がないことを阿部は小さな頃から身をもって学習していた。
 舌打ちしたいのを我慢してピアスを受け取る。
「どっちっスか。顔向けてもらわねーと出来ねー」
「左」
 簡潔に命令して、は髪を梳いて右側に集める。片手で掴めそうな細い首と滑らかな肩の皮膚が剥きだしになって、一瞬伸ばしかけた腕の動きが止まりそうになる。ライオンならまさに噛み殺す絶交のチャンスだが、阿部は別のことを考えていた。
 女の身体に開いてる穴に尖ったものを刺す、って云い換えるとスゲエ卑猥。
「終わりました」
 耳朶から手を離すとは何故かじっと阿部の顔を見詰めた。意図が解らなくて無表情に見返していると、はにやりと笑う。
「ありがと」
 阿部の腰の辺りをぽんと叩き、人のことを引き止めたくせに自分はさっさと出て行く。ごんごんと震えている洗濯機を蹴り上げたい衝動を阿部は何とか堪えた。
 あのクソ女。
 ピアス、わざと落としていきやがったな。


 たらふくカレーを食べて自室へと上がってきたらが今度は人のベッドを占領していた。
 ドアを閉めながら阿部は聞こえよがしに盛大な溜息を吐く。いきなりぱんと手を叩いてやると、その音に反応してうつぶせの身体がぴくんと微かに跳ねた。百万かけてもいいがは絶対に眠ってなどいない。ベッドの前に立ち、まだキャミソールにホットパンツしか纏っていない身体を見下ろす。
さん、俺もう寝たいんでそこどいてください」
 裸の肩に触れたくなくて声だけかけるも起き上がる気配はなかった。
 沈黙に舌打ちしてもやはり沈黙しか返ってこない。
 ベッドに膝を突く。阿部の重みでスプリングが軋んでの身体が揺れる。
「さっき云い忘れたんだけど、その服毛虫みてー」
 わざとが怒り出しそうなことを囁いてみるも今回は効かなかった。
「どいてくれないなら勝手に寝ますから、もう知らないっスよ」
 ど真ん中に寝ている細い身体に覆い被さり、容赦なく潰してやるとくぐもった悲鳴が上がった。
「ちょ、苦しいよデブ!」
「じゃあどいてください」
 身体を浮かせるとすぐさまが這い出してくる。阿部はその隙に真ん中のポジションを掠め取る。構うだけ疲れるのでさっさとタオルケットを引っ被ろうとしたら、まだ懲りていないのか今度は腹の上に跨られた。
 膨れっ面のが阿部の胸を叩く。
「タカヤさあ、不能なの? それともホモ? モトキの次はハシモトハシモトって何なの?」
「ハシモトじゃなくて三橋」
 そんなことはにとってはどうでも良かったんだろう、鼻を摘まれそうになって阿部はその手を払う。
 すると阿部の胸に手を突いて、むっとした顔のままが身体を倒してくる。考えるより先に阿部は素早くその肩を押さえていた。
「何この手は。どけてよ、さわんないで」
「嫌ですよ、放したらアンタキスするつもりでしょ」
 ふっと両腕にかかっていたの身体の重みが消える。が物憂げに眉を歪めて唇を噛む。今にも泣き出しそうな目で見てくるが阿部は一ミクロンも表情を変えなかった。
「タカヤはどうしてそんなに私のことイヤがるの……?」
「いいから腹からどいてください」
 重いから、という言葉は飲み込む。
 一瞬での顔から憂いが消える。可愛くないとか呟いているが誰の所為だと詰りたくなった。小さい頃から散々コレにやられて酷い目に遭ってきた。自分が女に夢を持てないのも妙に淡白なのも全部の所為だと阿部は思っている。
 それでもやはりこの状況は色々とよろしくない。腹の上からあと十センチ下に動かれたら本当にマズイ。暴れた所為で肩紐が落ちて半分胸が見えているのも物凄く目に毒。右手を伸ばしてそれを直してやりながら、阿部は嘆息する。
「ホントもうマジで勘弁してくださいよ、俺疲れてんスから」
「疲れててもヤリたいとか思わないの?」
 この女だけは信じられねえ。
 言葉もない阿部の上でが身体を縦に揺すり始める。
「キスも嫌がるしー」
「ちょ! マジでおりろ!」
「なんでーなんでなのー」
 腕を掴んだがの動きは止まらない。それどころか慌てる阿部を見てにやりと笑う。足を押さえつけようかと思ったが大腿は剥き出しだ。さらりとした肩の皮膚の感触を思い出す。多分やわらかそうなその太腿も同じ感触をしている。一回手を置いたら阿部の理性とは無関係に手をどけられなくなりそうでそこに触れるのは躊躇われた。
「タカヤはなんでこんだけ美味しそうなおやつがぶらさがってるのにたーべーなーいーのー」
「わかったから! 云うからどけ!」
 殆ど怒鳴るように云うと、はまた瞳を細めてにやりと笑った。
 だいたい女のくせににやりとしか形容できない笑い方すんなよと、自分のことは棚に上げて胸の内で舌打ちする。
 が漸く腹の上から去ったので、阿部も身を起こしベッドの上であぐらをかく。
 妙にわくわくした様子のにむかっ腹が立つ。なんで俺の周りの奴はこう自己中なんだよと溜息が出る。黙っていても仕方がないので、がしがし頭を掻きながら自分の中でも漠然としている感情を云い表すための言葉を捜す。
「多分一回ヤったら歯止めが利かなくなりそうだから嫌なんだよ。アンタ、俺がやりたいって云ったら断らなそうだし」
 興味がないわけじゃない、そういう欲求が高まっているときはヤりたいって思うときもある。でも、一回ヤっちまったらオナニー覚えたときみたいにハマって毎日やりそうで怖い。
 そんなこと云ってたら一生童貞じゃんと突っ込まれそうだし、阿部だって一生童貞でいるつもりはない。
 ただ今じゃない。
 いつならいいのかって訊かれても困るけど、多分今じゃない。
 阿部の真意が伝わったのか伝わってないのか、何故かが子供のように瞳を輝かせた。
「ねえ、それって私のこと好きってことだよね?」
「いや、別にそんなことは云ってねえっスよ?」
 握り締めた拳で殴られた。思いっきり。女の力でもこれは流石に痛い。
「バカ! 死ね! 好きでもない奴とキスしてんじゃねーよ!」
「ふざけんじゃねー! 今までのは全部アンタがムリヤリしてきたんだろうが!」
 ぴたりとの攻撃が止む。事実すぎて流石に反論できないのだろう。
 小六のときに無理矢理ファーストキスを奪われ、中二の正月には甘酒飲んでこたつでぬくぬくと寝ていたら口内を舌で犯される感触で飛び起きた。はっきり云って中二の方は軽くトラウマだ。今でも阿部はこたつで転寝すら出来ない。
 それ以外にも何度かとキスしたことはあるが阿部からしたことなんてなかった。涙目になっているのが少し可哀想だったが、たまにはいい薬だろう。
「気がすんだらマジで出てってください。俺早く寝たいんで」
「じゃあキスして」
「はああ?」
 がにっこりと艶やかに微笑む。
 阿部は酷使によりすっかり固くなっている左手で顔を覆った。本当に何なんだこの女は。ちょっとでも可哀想に思った自分が馬鹿みたいだ。
「ねえ、タカヤ」
 膝を揺すられる。
「キス」
 可愛らしい声でねだる。
 これも罠だ。一回しただけで今後鬼の首を取ったように一生云われるに決まっている。脅迫の材料をみすみすプレゼントするなんて脳が腐った奴のすることだ。
 阿部は手のひらに埋めていた額を上げた。
「…目ぇ閉じてください」
 は素直に目を閉じた。普段は俺が何云ってもシカトするくせにこんなときだけ云うこときくなよと頬を抓ってやりたくなる。実際は狙いを外さないようの頬を右手で包んだだけだったが。
 顔を近付けるとがほんの少し赤くなった。驚いて思わずしげしげとその顔を観察しそうなる。だが、そんなことをしていたらせっかく大人しくなっているのにまた暴れだすかもしれない。もうちょっと眺めていたいという未練を振り切り阿部も目蓋を閉ざす。
 変な気分だった。
 もう何回キスしたか解らないのに、初めてキスしたような気がした。
 触れただけですぐに離れる。怒られるかと思ったが、目を開けたは予想外に満足げに吐息を吐きだした。
「ありがと」
 にやりじゃない、なんだか透き通った純粋な笑顔にまたしても驚かされた。
 人の気も知らないで、ひらりとはベッドから飛び降りる。
「じゃーオヤスミね、右手が恋人のバカタカヤ」
 云い返す前にぱちんと電気が消え、ドアが閉まる。
 数秒そのまま固まっていたが、阿部はすぐに身体を横たえた。シーツから微かに甘いにおいがしてきて勘弁してくれと思う。
 『いつか』が『いつか』なんて解らない。
 でも絶対あの女だけは嫌だと阿部は目を閉じたまま眉間に皺を寄せた。