遅い昼食から戻ったら机にメモが乗っていた。
上司がお呼びのようだ。
私は十五時の会議に少し遅れるかもしれない旨をクリスに伝えると応接室へと脚を向けた。
奥にある上司の部屋ではなくて応接室に来いということはほぼ来客と考えて間違いなく、しかもアポなしの客ということは製品のクレームという可能性が高い。
最近やった仕事で何かミスをしそうなものはあっただろうか?
いや、こっちのミスじゃなくてもクレーマーとは自分の無能さを棚に上げて図々しく何でもかんでもこっちの所為にするからこそクレーマーよね。
ああ、嫌だ、気が重い。
それとも私を呼んだということは、淑女モードで丁寧に対応して穏便に事をすませろということなのかもしれない。なんせ同僚のボブは返品を申し立ててきた客と取っ組み合いの喧嘩になったという前科持ち。それ以来彼のチームの製品に何か問題が生じた場合、まず彼ではなく私が派遣されるようになってしまった。
一旦そう閃いてしまうと段々本当にウチのチームのミスで客を怒らせたわけではなく、他所のチームの尻拭いに間違いないような気がしてくる。だって、ここ最近の仕事で本当に思い当たるようなものはないんだもの。
応接室まであと少しというところまで来てしまった。
仕方ない。
溜息を吐くと私は意識的に唇を笑みの形に整えた。もう何万回と浮かべてきた顔だ、鏡なんて見なくとも自分がどういうふうに笑っているか解る。控えめで上品で女らしくかつ理知的でプロとしての尊厳を失わずに。一度でいいから客のクレームを鼻で笑い飛ばしてやりたいものだ。
全く冗談じゃない。
私はこんなくだらない仕事をする為にここにいるわけじゃないのに。
ノックをして一呼吸、ノブを回す。
「失礼します」
ドアを開けた瞬間心臓が止まるかと思った。
中途半端な形に笑顔が凍る。
「ああ、入ってくれ、ん? どうした?」
振り返った上司が私を見ている気配。変に思われるのは解っていたが、私は蛇に睨まれた蛙のごとく動けない。
最悪だ。
クレーマーの方が千倍はマシだった。
「…お久しぶり、その節はどうも」
そう云って革張りのソファの上でゆったりと脚を組み替えながらにっこりと凄みのある笑みを浮かべたのは誰あろう、シリコンバレーが誇る天才・三上亮氏その人だった。


  ethical egoism


「…退社なさったってお噂は耳にしていたので、てっきり起業なさるものとばかり思ってました」
「その予定だったんですが少しばかり気が変わったので」
沈黙に耐えかねて口を開いてみたが余計泥沼な雰囲気を招いてしまった気がする。駄目だ、会話が続かない。重苦しいプレッシャーが粘度を増して肩に圧し掛かる。
おまけに今日に限って廊下には人っ子一人見えず、誰かと行き交うことすらない。ここまで運が悪かったのか、私は。
零れそうになる溜息をどうにか飲み込む。
三週間前と違って彼は仕事でここに来たのだからと私は私で慇懃な口調になってしまったが、向こうは向こうで最低限儀礼的な返答を返すだけのその声はこの前とは打って変わって限りなくそっけない。
まあそれも無理もないか…彼にしてみれば私は恥をかかせたヤな女だろうから。
因果応報、という言葉が脳裏を過ぎったが、だったらまずは私ではなくフィッシャー教授にバチを当てて欲しい。この間のアレはあの温和な外見とは裏腹に最高に腹黒い教授が云い出したことなんだから、まずは首謀者である教授が責任を持って天罰を甘受するべきではないか。
頭の中でフィッシャー教授をボコボコのタコ殴りにしてみる。
ああ……逆効果だったわ、教授の顔を思い出したら余計に腹が立ってきた…。
そもそも私は無理矢理引き込まれたのよ、私だって被害者なのに。
話を持ちかけられた時、私は一度はきちんとお断りしたのだ、そういう他人を騙すような真似は好きじゃないのでご協力しかねます、って。なのに、フィッシャー教授はにこにこしながら『ところでこういうものがあるんだけど』とどこからともなく取り出してきたのだ。
シュタイフが日本でのみ限定発売しているキンタロウ&ベアセットを。
……全くウチの両親とフィッシャー教授が下手に既知の間柄なもんだから質が悪い。柄じゃないのは解っているので、テディベア収集という趣味を友人にすら内緒にしているのに、これではまるっきりプライベートな情報がダダ漏れではないか。
まあプライバシー問題は一旦置いておいて話を戻すと、そのクマに跨ったキンタロウベアという一品にはっきり云って私の心はかなり揺れ動いた。それでも自分に求められた役割とリスクを考えると首を縦に振る気にはなれず、とにかく無理ですからと再度断った。
しかし、あのフィッシャー教授が既に彼の中では必然となっている予定を、たかが小娘の一言で易々と翻すわけがなかったのだった。
研究室に何故そんなものが置いてあるのか、おもむろにガーデニング用と思しきいかにも頑丈そうな鋏を取り出すと、教授はその大きな二枚の刃でベアの首を挟み込む。
硬直する私に向かってフィッシャー教授は朗らかに云い放った。
『なら、僕には必要ないからこのクマちゃんは処分しときますね』
この人は悪魔に取り憑かれているに違いないとその時本気でそう思った。
今まさに握りこまれようとしているその右手に私が悲鳴を上げると、鋏をすいっと引っ込めて教授はにっこりと笑う。
『やっぱりぬいぐるみとはいえ首ちょんぱなんて残酷なことはしちゃいけないよね?』
かくして私は三上亮を主役とした賭けの片棒を担がされる羽目になったのだった。
まあ、散々嫌々文句を云っていた割には『バーで奢らせて無駄にその気にさせて必要のない部屋を取らせた挙句その誘いを無下に断ってこい』という血も涙もないような指令をきっちり遂行してきてしまったんだけど。
だって、その内きちんと教授自身が間に入って取り成すというアフターケアへの保証書と、あくまで首謀者は教授らであって私自身は単なる雇われ協力者に過ぎないという雇用契約書も作らせたもんだから、私には三上亮を陥れても責められないだけの大義名分が在ったので、つい。
正直に白状すると彼をヘコましてみたかった、というのもちょっとはあったりしたし。
三上亮が女たらしというのはこの業界では有名な話。
彼に対するやっかみがその手の噂の無尽蔵の原動力となっているのは疑いようがないものの、しかし、それにしたって流される噂の半数以上が中傷ではなく事実というのもそれはそれでちょっとどうかと思うわよね。
ホテル・オーナーのご令嬢だのモデルだの、大体三ヶ月ぐらいで彼女の中身は入れ替わる。
二股とか別れ話の縺れとかの醜聞は未だ聴いたことはないし、独身なんだから別に誰と付き合おうが問題は何もないんだけど、でもでもなんとなーく許せない気がするのはやっぱり僻んでいるということなのかしら?
おまけにフィッシャー教授から彼の性格や常套手段、私を前にした時に彼が選択すると思われる行動パターン等のレクチャーを受けた結果、私がイメージした三上亮という男は非常に鼻持ちならない男だった。
だから、ちょっとばかりその鼻っ柱を折ってやりたいと思ってしまったのだ。
まあ、実際に本人を目の当たりにしたら、そのサイクルの速さも仕方がないと思ってしまったんだけど。
教授の言葉から私が想像していたのとは違って、少なくともあの夜の三上亮からは傲慢で我侭なところは窺えなかったし、よく気の利くスマートで機知に富んだ人柄だった。
その上、マスコミ媒体を通じて目にする姿よりも、生の実物の方が数倍魅力的な容姿をしている。
女性の方が放っておかないだろう、この男を。おそらく別れたと噂が立った瞬間、虎視眈々と恋人の座を狙っていた女性が殺到するはずだ。
で、だ。
今問題なのは、私はそんなふうに絶対女性に困ってなく、また女性に冷たくされたりあしらわれたり馬鹿にされたりした経験がなさそうな三上亮氏をまんまと虚仮にしてしまったわけで…。
曰く『気が変わった』三上亮氏は三ヶ月の短期契約社員としてウチと契約したそうで、しかも一応所属はウチの部署の私のチームということになってしまったわけで……。
フィッシャー教授はほとぼりが冷めた頃にパーティでも開いてきちんと三上と和解できるように必ず取り計らってあげるからと云っていたが、そのほとぼりが冷めてもいないこの時期にこうして再会してしまった責任はどうとってくれるのだろう。
それとさっきこっそり上司に三ヶ月契約だが、なんとかして半年でも一月でも契約を延ばすように仕向けてくれ、と囁かれたが、ナントカって私に何をどうしろというのよ? 色仕掛けでもしろというのか?
どうせあの上司は三上を自分の手駒として手元に置いておきたいだけだろう。三上も私と同じように自分の出世の道具として利用するのが狙いなのだ。
本当に馬鹿馬鹿しい、そんなことは自分で勝手に交渉すればいい、現場にそんな駆け引きを持ち込もうとするな。
本当に私が何をしたというのだろう。
揃いも揃って私に仕事とも呼びたくないようなくだらないことばかり押し付けてくる。
「ああ、そうそう」
三上のそっけない声。
私は脚を止める。あと5メートルも行かないうちに目指す会議室だったので、これ以上先に進むわけには行かなかった。会議室は完全防音になっているから声が届く可能性はなかったけど、続く言葉はある程度予想出来たからこの五メートルは心理的な保険のようなものだ。
三上も脚を止める。彼は背が高い。私は身体の向きを変え、彼を見上げた。ここまで歩いてくる間に覚悟はしていたので、今更慌てる必要なんてない。
「何でしょうか?」
「フィッシャー先生はお元気でしたよ」
きたか。
私は三上亮と視線を合わせて、一度瞬きをしてからゆっくりと微笑んだ。
「そうですか、それは何よりです。しかし、申し訳ありませんがこの場に居る限りは仕事の話をして頂けますか? もしどうしても無理なようでしたら、あなたが仕事に専念できるような環境を整えますが」
つまり、意訳すると『どういうつもりでウチに来たのか知らないが、一旦契約したからには私情を挟まずプロとして振舞え。それが出来ないぐらい私が目障りなら、私は降りて誰か別の人間を立てるからさっさとそう云え』ということだ。
我ながら良い根性しているわね、けど本当にこれ以上男どもの馬鹿げた都合に振り回されるのはごめんだったのだ。
さあ、来るならこい、三上亮。
私だって伊達にチーム・マネージャーをやってない、男相手の喧嘩が恐くてリーダーなんてやってられるか。
「君が退場する必要は全くない」
けど、私の慇懃無礼な発言を聴き終えるなり、三上亮はくっと咽喉の奥で笑ってそう云ったのだった。
あまりにあっさりしたその態度に驚く私を置き去りに、三上亮はさっさと一人で歩き出す。
私は慌てて後を追う。ここに来るまでは私の歩く速度に合わせてくれていたのか、別段彼は早歩きをしている様子でもないのに小走りの私と三上との差はなかなか縮まらない。
漸く追いついた時には三上は既にドアノブを握っている。
ドアを開ける前に三上は私を振り返ってニヤリと嗤った。
「下手に謝らなくて正解だったぜ、。そこら辺のつまんねーバカ女みてえに全部を教授の所為にして泣いたり媚びたりしてきやがったら興醒めもいいとこだった」
そのはっきり云って口汚い日本語の言葉の数々。
おまけになんだその意地悪そうな笑い方は。
この間の夜は幻だったのだろうか?
呆気にとられて立ち竦む私を置き去りに三上亮は一人さっさと中に入っていく。
その自信に満ちた背中で思い出す。ああ、そうだ。フィッシャー教授の言葉の中に存在していた三上亮はむしろあんな笑い方をしそうな男だった。
ああ……なんてことだろう。
軽く額を押さえつつ、会議室に入る。
私はとんでもない男に喧嘩を売ってしまったようだ。


「…では、明後日、今日と同じ時間にここで」
私が終了を宣言すると皆が一斉に肩から力を抜いたのが伝わってきた。
それも無理もないかもしれないけど…。
「ミカミ」
ロウエンがミカミに近付く。
ああ、そういえばロウエンはウチに来る前、二週間前に三上が退社したばかりのアスペルツイーストマンにいたんだっけ。
三上は立ち上がると、笑顔でロウエンと空中で拳をぶつけ合う。ポロのロウエンはともかく、三上なんてスーツ着用のくせに。
会議中とはがらりと変わって気さくにロウエンと握手を交わすその姿に安堵したのか、他の連中も砂糖のにおいに引き寄せられる蟻のようにぞろぞろと三上の方に移動していく。
私とクリス、それから此度の会議で三上からの集中砲火を浴びることになったニールだけは座ったまま、明後日の会議の前に明日三人でやっておかなきゃならないことの確認と段取りを決めていたんだけど。
出来ればクライアントとの打合せをしたいとニールが云うから、私は電話を持って廊下に出た。
新しいアイデアがあるのでそれが実現できれば貴社のビジネス・チャンスが広がる可能性がある点、ただ、我々は保険に関しては素人なのでより良い製品にする為に専門家の目から見たアドバイスをとても欲している点を伝えると、夕方どうにか都合をつけてくれるという返事が貰えた。
通話を切って会議室に戻ろうとしたところで、丁度ドアが開く。
黒いスーツが軽く手を上げながら出てきた。私に気付くと三上は人当たりの良さげな笑みをすうっと消しさって、再びニヤリと唇の端を曲げてみせた。
私もにっこり笑ってやる。
「もうお帰り? 来た道を覚えてらっしゃらないようなら出口までお送りしましょうか?」
「お忙しいようなので結構。一分一秒でも惜しいようですから」
そう云ってくるりと踵を返すと、余裕を見せ付けるかのように均整のとれた背中は悠然と歩き去っていく。
…………ムカつく。
ええ、ええ、自業自得ですとも、あんなことされたら怒るのは当然よ、さっきはあんなこと云ってたけど本当は私のことなんてムカついてムカついて仕方ないんでしょうよ、でも今日の会議でちょっとは溜飲が下がったんじゃないの、仰るとおり全然一分一秒だって惜しまなくちゃならないような状態ですから。
爆発しそうな苛立ちを抱えつつドアを開けると頭を抱えたニールの姿が飛び込んできた。
「…あ〜! なんで保険業界まであんなに詳しいんだ、ミカミは! 管轄外だろ! 化け物か!」
アンが慰めるようにニールの肩を叩く。
「化け物じゃなくて、天才よ…なんたって3Gですもん」
シリコンバレーに住み着いている人間相手なら3Gと云えば大抵通じる。
3GのGはGenius、つまり、アズラエル・ベンジャミンとステファン・ビー、そしてアキラ・ミカミという同時期に存在する三人の天才を指す。
彼らは大学在学中に三人でMEという小さな会社を作った。そして、彼らがたったひとつ手掛けた社名と同じMEという製品は全米で大ヒットした。
けれど、ベンジャミンとミカミの卒業を期に、MEは総合家電メーカーのヒュースロンに売却されてしまう。
ベンジャミンはそのまま大学院に進学し、ミカミは当時既に業界での地位を不動のものにしていたアスペルツイーストマンに、当時まだ二年生だったビーも退学して資本金二千万ドルの新興企業に就職した。
未だに彼ら三人のことは人々の話題に上ることは多いし、MBAのベンチャー企業に関する講義では彼らの話が事例として扱われている。
「まさかあのミカミと仕事をする日がこようとは」
ワットンが腕を組みながらしみじみと呟く。
私はその横を通り過ぎ席に戻った。
「俺、ME持ってるよ、使いすぎてかなりボロボロだけど未だ現役」
「私も持ってる。でもアレ、ヒュースロンに売却しちゃってからは、はっきり云って悪くなる一方な気がするんだけど」
「そうそう、継続機のはずなのにマンマシンインターフェイスの観点からはどんどんレベルが落ちている。スピード感がなくなってストレスが増えた」
「機能が充実っていうよりはゴミな機能が増えている」
「名前もダサくなった、MExとかって」
陽気な笑い声。
「そうそう、やっぱ初期型が一番良かったよぁ。シンプルイズベスト」
「でも、不思議よね。ビーはLQDに移ったじゃない、あそこが今一番R&Dに資本投資してくれるから。だからその決定については納得出来るのよね。でも、自虐的な云い方になるけど、なんでミカミは今更ウチにきたの? 何の為に?」
「確かに。R&Dやトレーニング目当てなら普通ビーのようにLQD行くよな。アンの云うとおり、情けないけど今僕らがやってる仕事はそれほど創造的な仕事じゃない。それに、MBAもとったらしいし、会社起こすものだとばっかり思ってた」
「作る気はあると思うよ。だって三週間前の展示会で投資家連中と話し込んでるの見かけたよ、会場にはレイ・スタンレイの姿も見えたし、アレは融資を募ってたって考えて間違いないと思うけど」
「ジャージャーマクワイブのキムに声かけてた、って噂も聴いた」
「スタンレイもミカミと一緒にアスペルツ辞めたし、それってやっぱ一緒に会社作るってことよね」
「本当に何故今更ウチに?」
「ねえ、チーフ、チーフは何か知ってる?」
私は考え込んでいる素振りでじっと視線を注いでいた書類から顔を上げる。
その場にいる全員の視線が私に集中する。それら全部を叩き落すように曖昧に微笑む。
「さあ。さっきは気が変わったから、って云ってたけど。それ以上のことは私は解らないわ」
一瞬、皆何か云いたそうな顔をした。まだ直接私の耳に入るようなことはないが、この間のホテルでのことは既に噂になっているのだろう。
わざわざ私の前でお喋りをするのは私が何か口を滑らすことへの期待、ってとこかしら。
けれど、一向に話に乗ってこない私に諦めたのか、それ以上の追求をすることもなく、お喋りは再開される
「ヘッド・ハントって線は?」
「わざわざ自分で乗り込んでくる必要性は?」
「…ない。いいだろ、ちょっとぐらい自分がミカミの目に留まったのかもって夢みたって」
再び笑い声。
ぐしゃぐしゃとペンを走らせる私の横にクリスが来た。
、僕はオフィスの方に戻ろうと思うんだけど、それとも打合せはこのままここで?」
「ああ、ごめんなさい、先に戻っててくれて構わないわ。私は動くと頭からさっきの会議の中身が零れそうだから、ここで考えをまとめてから戻るから」
クリスはちょっと笑ってオーケイという感じに手を上げる。
一時間後にオフィスの方で明日の打合せをすることを決めるとクリスは部屋を出て、それにつられるように他のメンバーも部屋を後にした。
漸く独りになった私は椅子に凭れて白い天井を見上げた。
…………今私のチームが取り組んでいる課題は、某大手保険会社のeコマースによる販売革命を実現させることだ。
ウェブ・デザインに関しては以前にオンライン販売のみで営業するというベンチャー企業からの依頼を手掛けたことがあるので、それを雛形として改良すれば一から作り上げる必要もなかった。
取り扱っている商品が多いので複雑さが要求される点、これまでは対面販売だったものに非人間的なコンピュータを導入することで生じるであろう顧客からの反発や抵抗を防ぎかつ取り除く為に親しみやすく、ユーザー・フレンドリーなオンライン保険商取引を可能にさせねばならないという点、問題らしい問題はそれぐらいで、特に難しい仕事ではないはずだった。
納期までは三ヶ月と異例の長さだし、慌てる要素なんてひとつも存在しないように見える。
だから本当の目的はオンザジョブトレーニング。
これはCEO候補であるクリストファー・J・オブライエンの教育訓練の一環なのだ。
私が上司から受けた命令は、このプロジェクトを成功させることは勿論、出来るだけ私はサポートに徹してクリスにチームの舵を取らせるよう仕向けることだった。
私の使命は私が必死で努力して積み上げてきたノウハウをただ同然でクリスに分け与え、彼に現場の雰囲気を叩き込み、机上の空論を捨てて現実には臨機応変に対応していくしかないリーダーシップや意思決定に対する勘を鍛えてやること。
私は手を翳して両目を覆った。
今更泣けるほど可愛い性格はしていない。
さっきは動くと零れ落ちそうだ、なんて云ったけどあんなのは嘘だ。
忘れられるわけがない。
会議の中で三上亮の放った言葉は一言だって私を通り抜けて消えることはなかった。全てが私の中に立ち止まり、私をずたずたに引き裂いていく。
三上亮の指摘は全てが正しかった。
集中砲火を浴びたのはニールだったけど、それは結局私の怠慢が招いたことだ。
以前作ったものを流用すればいいなんて馬鹿な考えだった。
私たちは全く理解していなかった。
余裕があるなんてとんでもない、これからは三ヶ月間毎日が一分一秒との戦いだ。
「最低…」
自分を天才だなんて思ったことはない。
けれど凡才でもないと自惚れていた。
こんな仕事は私の仕事じゃないって最近はそればかり考えていた。
その結果がこれだ。今日来たばかりの三上は易々と欠陥を論った。真面目にやっているつもりだったが、私は本気でクリスをサポートする気があったのだろうか。
私はどこかでこのまま自分ともどもクリスの評価も落ちてしまえばいいと思っていたのではないのか?
くだらないくだらないと与えられる仕事を内心悉く唾棄してきたが、では私が本当にするべき仕事とは何だというのだろう?
そのくだらない仕事すら満足にこなせないのに?
何時から私はこんな醜い思い上がりをするようになっていたのか。
これまで自分の拠り所としていたものが全て崩れていくような不安感が胸に去来する。
何故三上亮のような人間がこの世には存在するのだろう。
私は自分の居場所を見失いそうだった。




「おい、どこにいんだよ、
私は溜息を吐いた。
今日も今日とて三上亮様は尊大な俺様口調。どうしてあんなにも自信過剰なんだか……まあ、実際亮はその自信に見合うだけの能力を備えているけど。
「はいはい、お呼びですか〜、アタクシここにおりますわよ〜」
正しく慇懃無礼な返事を返すと隙間が見えないほど密集した葉っぱの向こうから「てめえ俺をバカにしてんのか、後で泣かすぞコラ」と、この三ヶ月の間に心から彼を崇拝するようになった部下にはとても聴かせられないような下品な日本語が飛んできた。
それにしてもヒーリング効果がどうのとか云っていたが、よくもまあ、クリスはこんなベランダいっぱいに観葉植物を集めたものだ。直線距離にしたらベランダの窓からこの手摺までは精々四メートル程度なのに、がさがさ揺れる葉っぱは全然真っ直ぐ進めていない。右に左に蛇行して、漸く都会のど真ん中の俄かジャングルを掻き分けて出てきた亮はやっぱりスーツ姿で、背後に生い茂る緑を背負ったビジネスマンというのは何だかシュールな光景だ。
「お前…今日の主役が何してんだよ、そんな隅っこで」
私を見つけるなり八つ当たりのように不機嫌そうな顔で偉そうに一言。
ムカつくのでふんって感じに視線を亮から夜景に戻して、グラスに口をつける。
「別に主役じゃないもん、主役は亮でしょ、遅刻してきた挙句ドンペリなんて持ってきちゃって、なーんて気障ったらしいんでしょ。気障が移るからあっち行ってよ、しっしっ」
「てめ、何ヒネてんだよ、可愛くねえな」
ぐしゃりと頭を撫でられる。
親しき仲にも礼儀あり、ということわざを真逆で行ってる私たちは、仲良くないからこそ何時の間にやらお互い呼び捨てで遠慮のない罵りあいをする仲になっていた。日本語が解るスタッフは居なかったから、私たちが穏やかな笑顔の裏でどれだけ低レベルで醜い云い争いをしているかバレる心配はなかったしね。
おかげで例の噂も相俟って周囲は勝手に誤解しているようだが、はっきり云ってそこに愛はない。
「おい」
私の横に立ってだらしない感じに手摺に背中を預けるとぶっきらぼうにグラスを差し出す。
「ん」
そのいかにも『俺がいたんだから成功するのが当たり前だろ』って感じに、本当は嬉しいくせに全然嬉しそうじゃない表情を無理矢理繕おうとするのが三上亮らしくて、可笑しくてつい笑みが零れる。
全くなんでこの男はこういう変なところが子ども染みているのだろう。
指摘したら絶対怒りそうだから、私は黙って素直にグラスを差し出しす。
重なったグラスは小気味いい音を奏でた。
「終わったな」
「ええ」
「全く最初はどうなることかと思ったけど」
「悪うございましたねぇ、私が至らないばっかりに」
咽喉の奥を鳴らすように亮が笑う。
私も少しだけ笑ってグラスへと目を伏せる。
三ヶ月はあっという間だった。
あれから根本的な見直しを図ったプロジェクトは、最終的には二度の大規模な動作実験を行う余裕すらあった。二度の実験とも問題は発見されず、完成品を今日納品してきた。明後日には稼動し始め、それによってクライアント企業は将来的には代理店の数を二千は削減することが出来るはずだ。
プロジェクトは成功した。
大成功といってもいいかもしれない。クリスは良くやってくれた。彼にとっても今回のプロジェクトは大きな糧となったことだろう。私は十分メンターとしての役割を果たせたはずだ。
お礼なんか云ったら超図に乗りそうだから絶対口にしないけど、亮には感謝してる。
本当に最後の仕事としては最高の出来だった。
「おい」
「…なによ」
亮を見上げると数秒私を見つめた後、溜息を吐いて植物へと視線を戻す。
「あのお坊ちゃんは前からお前の右腕なのか? そこそこ使える男だったけど」
私はその不遜な物云いに笑ってしまった。お坊ちゃんとはクリスのことだろう。未来のCEOも亮にかかったら形無しだ。
「違うわ。私が彼の右腕なの」
亮が変な顔をする。確かに肩書きの上では私が彼の上司なのだからそれも仕方がないことだ。彼がCEO候補だというのはまだ社外秘なのでこれ以上喋れないけど。
話を逸らすように私は再び夜景へ目を向ける。
「ああ、そういえば初めて会ったときはごめんなさいね。凄く今更だけど、もう会うことないかもしれないから謝っとくわ」
「あ? 何だそりゃ?」
「私、大学の方に帰ろうかと思ってるの。あ、帰るって云っても工学の方じゃなくて数理統計の方なんだけど。父と母がね、エディティングとコーディングを任せられる信頼できるスタッフを探してるらしくて。しばらくのんびりした後に面接に行くつもり」
それは三ヶ月前から考えていたことだった。
好きで選んだはずの仕事なのに、最近は苦しいばかりだから。
亮が居たこの三ヶ月の間は刺激的で面白かったけど、彼の契約はあと数日で切れる。更新する気はないようだし、彼が居なくなったらきっとまた私は例の思い上がりに囚われてしまう。この先ずっと遣り甲斐を感じられない仕事に不満を押し殺し続けていくぐらいなら、いっそきっぱり足を洗おうと決めたのだ。
「ふぅん…あっそ」
私は手摺にもたれていた身体を起こした。
「なぁに? どうしたのよ?」
そっけない口調はいつものことだけど、それだけじゃなくて何だかその声には苛立ちが滲んでいるように聴こえた。
なのに憎たらしいことに亮は私のことを完全に黙殺してスーツのポケットに手を伸ばす。
そこから現れた煙草とライターに私は目を丸くしてしまう。吸っているなんて知らなかった。
煙草を咥えて手のひらを翳して火を点ける、その一連の仕草はどう見ても手慣れていて昨日今日吸い始めたって感じじゃない。
呆気に取られて凝視する私の視線に気付いて、亮が煙を吐きながらさも鬱陶しそうに目を細める。
「何だよ」
「え…あ、ちょっとびっくりしただけ。煙草なんて吸うタイプには思わなかったから」
「ウルセエな。ガキん時の反動が今頃きてんだよ、ほっとけ」
亮は私の持つグラスに指を伸ばすとチェリーを摘み上げ、それを私の唇の隙間に押し込んだ。
……やっぱり何か怒ってるっぽい。
でも何に対してなのかさっぱり見当がつかない。さっきまで別に機嫌は悪くなかったのに。
散々二度と顔見せんなバカ女とか云ってたんだから大笑いして喜ぶかと思ってたのに何なのよ、この反応は。
私は黙ってチェリーを噛み砕き嚥下する。
その間も亮の煙草はどんどん短くなっていく。
何とか沈黙を打破出来ないものかと頭を巡らしていると、不意に亮が煙と一緒に苛立たしげに口を開いた。
「中学まで俺はサッカー中心の生活送ってた。けど、限界が見えた。俺の周囲にはサッカーに愛された男が何人もいたけど、俺はそうじゃなかった。だからサッカーを捨てた。高校に上がってからは今度はこっちの大学に入る為に毎日毎日勉強ばっかで今以上に忙しくてろくに遊ぶ間もなかった。英語や数学だけじゃなく、趣味の範囲でしかなかったパソコンや半導体関係の専門書も読み漁った。あの頃の俺の睡眠時間は一日四時間ぐらいだ、起きてる間は可能な限り勉強していた。
 3Gとかクソみたいな通り名があるけど、少なくとも俺は天才なんかじゃない」
吐き捨てるような言葉たち。
亮がどうして3Gと呼ばれるのを嫌がるのか私は初めて理解した。
私から見れば三上亮はどう考えても天才で、大した努力をしなくても何だって容易くこなしてしまうような男で、挫折なんて縁がない万能な人間だと思っていたのに。
センスが悪いって顔を顰める姿は何度も目にしてきたけど、そんな上辺だけの単純な理由じゃなかったのか。
苛立たしげに煙を吐き出すと、じろりと私を見下ろす。目が合って思わずびくりと肩を揺らした私の前で、亮は止める間も無く煙草を柵の向こうへ放り投げた。
「あ…!」
慌てて私は十五階下の暗闇を覗き込む。煙草の姿なんて当然視認出来っこなかったけど、街灯に照らし出された路上に人影はない。
安堵して息を吐き出す私の頬を亮の指が撫でた。
「この距離から落下した場合煙草の質量はどれぐらいになってんだ?」
睨みつけても何様のつもりなのか平然としている。私の頬に触れることも止めない。
「知らないわよ、そんなの。亮、酔ってるの?何てことするのよ」
「なあ、お前は本当にそれでいいのか?」
会話になってない、そう思った瞬間腕を掴まれて乱暴に引き摺り寄せられた。
「ちょっと、痛いって」
「逃げるみたいにこの町を捨ててムカつく連中が居ない代わりに何の刺激もないデータと睨めっこする毎日でお前は本当にそれで満足なのか?」
私の頬を包み込むように捉えると亮は強引に顎を上げさせた。
目が合ったその顔は本気で腹を立てているもので、射殺すぐらいの激しさで睨みつけてくる。
「よくねえだろが。大学に帰るぐらいなら俺と一緒にやれ。シッポ巻いて逃げる前にもう一回俺と一緒に戦ってみろ。解ったな、返事は?」
「え、あ、ええ…」
「よし」
そう云うなりいきなりちゅってキスされた。
えって思うより先に腰に腕が回ってきて抱き寄せられる。あまりのことに私がフリーズしているのをいいことに、腹が立つぐらいに慣れた仕草で私の顔を上向ける。
「目ぐらい閉じやがれ」
あと一センチのところで腹立たしげに端的に告げてくる。
私の意思なんか無視したその一方的な暴虐無人さ。
早くしろと云わんばかりに目蓋の上に口付けられて私は反射的に目を瞑る。けれど、おかしくて仕方ない。
何を命令通りに私は目蓋を閉じているのだ。
どうして私はあの三上亮とキスなんかしているのだろう。
こんな性格が歪んでて口の悪い自己中心的な男は大嫌いなはずなのに。
全く我ながら頭がおかしくなったとしか思えない。
「てめえ何笑ってんだ」
開こうとした口は再び唇で塞がれる。
亮と交わした最初の口付けは煙草の味がした。