エレベータを降りる。
床にはレッドカーペット、その脇には隙のない身のこなしのボーイ、歩く速度と絶妙のタイミングでグラスを差し出す。
グラスを受け取って、俺は片手でネクタイを締め直す。といっても全く緩んじゃいなかったが、まあ、気分的なものだ。
なんせあと一歩越えた向こうの大ホールには金の卵を発掘しようと血眼になってる資産家連中がごろごろいやがる。無駄に気合を入れたくもなるってもんだ。最もネクタイの具合なんかこのシリコンバレーじゃ気にしてる奴のが少ないけど。
景気付けにグラスを一息で呷ると俺は魍魎跋扈する会場へと脚を踏み入れた。


  ethical egoism


グラスを擦れ違うボーイへと渡しながら首を巡らす。
展示会終了後、興味を持ってくれた投資家連中と商談していた俺よりも一足先に連れがこっちに来ているはずなんだが。
人込みを擦り抜け、見知った顔を見かける度に目線でどうだと合図を送りあう。ここはこういうところが面白い。バリバリの競争相手のはずなのにセミナーとかで顔を合わせるうちにいつの間にか親しくなっていて、気が付けば情報交換したりアドバイスしあったりする仲になってる。
資金繰りが相当拙い、ってぼやいてたジョーゼフは俺に向かって首を括るジェスチャーをしてみせた。俺は噴出しそうな顔を何とか微笑の形に踏み止まらせて肩を叩いて通り過ぎる。
ジョーゼフは技術屋としては申し分ない男だが、いかんせん経営者としては最低の部類だ。悪いが俺が自宅のプールを金貨で満たしてクロールしているような生活を送っていても、あんなお粗末なビジネスモデルにゃ1セントだって払う気にならない。
俺は前からお前は経営者にゃ向いてない、って忠告してやってるのに、あいつは父親がしがない自動車修理工で終わったことに対して相当のコンプレックスを抱えているのか、誰かに使われるのはごめんだとトップに立つことにこだわり続けてる。
それもひとつの生き方かもしれないが、俺はその才能が惜しい。これで倒産したらいよいよ四度目だ、今度こそ懐に引き込むチャンスかもしれない。俺はしばらくジョーゼフのミクロマンインク、つーか社名もセンスねぇよな、まあ、腕さえ確かなら名前なんてどうでもいいけどな、まあそのちっさい男社の動向に注意することをメモると脳内に貼り付けた。
「アキラ!」
ああ、やっと見つけた。
俺はシュテンファー夫人に愛想笑いを送ってからレイの元に近付く。
「どうだった?」
眼鏡の生真面目そうな男が俺を不安そうに見上げる。鶏が先か卵が先か。別に俺の能力を疑っているのではなく、ペシミストな性質が先か、それとも普通にしてても困ってるような顔つきが先なのか、この男はいつもこんな顔をしている。
「ああ、とりあえずはな。口約束だが資金供与の約束は取り付けた、明後日と六日後向こうに出向くことになった」
「やった! さすがアキラ!」
レイがコンパクトなガッツポーズを決めてみせる。俺は苦笑しながら、またボーイのトレイの上からグラスをふたつ取った。
「お前の方はどうなんだ? カールビンセント辺りの大物と仲良くなったんだろ?」
グラスを差し出すと、レイはまた困った顔になった。
「勘弁してよ……ごめん、カールビンセントどころか……そこらの天使さま一匹だって捕まえられてない」
俺は溜息を吐きそうになってそれを酒と一緒に飲み込んだ。そんなことをすればレイは傷付く。もともとさっきのジョーゼフ同様こいつも技術屋一辺倒で交渉ごとはからっきしだ。過分な期待をする方が残酷というものだろう。
俺はレイの頭にぽんと手を置く。
「まあ、とりあえず天使さまは当座必要なぶんは最低限確保出来たからいいさ。それよりカールビンセントやフォレットとかの大天使さまは? 金は出してもらえなくても顔見知りにはなっておきたい」
やっぱり困った顔で俺の手を振り払いながら、レイは中途半端に首を振ってみせた。
因みに「天使さま」というのは創業間もないベンチャー企業に対して資金の提供や事業支援を行うエンジェルと呼ばれる個人投資家のことだ。もともとはミュージカルを制作する際に、資金提供する金持ち連中を天使と呼んだことに因んでのことらしいが、金を出してくれる奴を天使と形容するアメリカ人のセンスが俺は理解不能だ。本気なのか皮肉なのか、未だに判断がつかない。
「残念だけどカールビンセントはもう帰っちゃった。ほんとに付き合いって感じに乾杯の時に見かけただけで、すぐに帰っちゃったみたい。フォレットは……アレだよ。特攻する勇気があるなら止めないけど」
レイがちらりと目を向けた方を見る。
…ああ、なるほど。
フォレット氏は両脇と背後、さらにその周囲にまでSPを侍らして、いまや飛ぶ鳥を落とす勢いのLQDのアルベルト・ロビンソンと談笑中だ。
シリコンバレーじゃアルベルトがフォレットんとこに最初に話を持ち込んだのにフラれて、次にカールビンセントんとこに行ったらあのじいさまは十万ドルの資金供与を即決して、そのおかげでアルベルトは今やニューエコノミーの旗手とか讃えられるようになったってのは既に有名な伝説だ。
つまり、アルベルトのアメリカン・ドリームとフォレットの見る目のなさの伝説。
「あそこに今割って入ったりするのは勇気じゃなく、自殺行為だな」
俺が肩を竦めてみせると、レイもうんうんと頷く。
フォレットが最初の失敗を取り戻そうと躍起になってるのも有名な話。もともとカールビンセントと反目していたって背景もあるんだろうが、未だにあの痛恨のミスを引き摺ってアルベルトに固執して、どうにかLQDの筆頭株主になろうと裏で表で画策している。それが利益や利害がどうのって次元ではなく、完全な私怨に基づく行動だってことは誰の目にも明らかだ。
最近じゃ事業家として奴はもう死んでるよ、と囁かれ始めている。実際、アルベルトに気を取られている内に、奴が見向きもしなかった小物連中が今じゃ業界最先端企業に成長してたりする。馬鹿な話だ。
馬鹿な話ではあるが、金を出してくれるならフォレットの頭が例えかぼちゃでも俺は構わないけどな。
けど、とりあえず今回は無理だ。大事なアルベルトちゃんを口説いてるところを邪魔したりしたら、コインを恵んでもらうどころか存在自体を抹消されかねない。
「なら、他に目ぼしい天使さまは?」
「あ、天使じゃないけど、有名人はいるよ」
「有名人? 誰だ?」
レイがちょこちょこと歩き出す。どうもこいつを見ていると俺は日本でガキの頃に見た覚えのある絵本の挿絵を思い出さずにはいられない。確かねずみのやつで、ぐりとぐらっていうやつ。
「ほら、あそこ」
珍しくも心からにこにこしてるような顔で俺を振り返る。
再びその視線の先を追ったものの、俺には最初レイがどいつを指して有名人と云ったのか解らなかった。
しかし、疑問を発するより先に次の一言で謎は氷解した。
「あれがシリコンバレーのバラだって。アキラも会ったことないんだよね?」
俺は頭を抱えたくなった。
レイのそのボケっぷりと、そのどう考えたって俺にはセンスが悪いとしか思えないネーミングセンスの両方に、だ。
「レイ…有名人なのか、アレは」
「えっ? アキラ彼女に興味ないの? アキラのことだから絶対興味あると思ったのにどうしたの?」
俺は今度は自分の分だけグラスを奪い、三杯目を一気に半分まで飲み干した。
どうやら俺はどこの国にいても、いくつになっても、女遊びが激しいと判断される外見をしているらしい。……まあ、その評価の半分ぐらいは真実かもしれないから、俺は咽喉まで出かかった反論を封じ込めたのだが。
それにレイの云うとおり、あの女にまんざら興味がないわけじゃない。
「噂は本当だったね……彼女、本当に綺麗だ」
レイはうっとりとしたように呟く。もともとレイは日本びいきだし、肉感的な女は苦手だとか云ってたから、黒髪にあの華奢な身体つきはそれだけで高得点だろうな。
俺はグラスの残りに口を付けながら、誰がつけたかシリコンバレーのバラとやらを観察してみた。
顔は…確かに十分美人の部類だな。スタイルもいい。日本人にしちゃ腰の位置が高くて脚が長い。
「ねえ、アキラ、彼女日本人なんだよね。日本語の挨拶ってなんだっけ、こ、こ、コロチワだっけ?」
「こんにちは、でもこの時間ならこんにちはよりこんばんは、だな」
「コビャーワ?」
「こんばんは」
俺のそっけなさに頓着した様子もなく、横でレイが「コバンワ、」とぶつぶつと呟く。
シリコンバレーのバラことは俺と同じく日本人。
なんで有名人かというと、まずあの女の両親が揃って数理統計学の権威で、その二人の論文がこの前企業戦略に関してちょっとしたセンセーショナルな話題を提供したことに端を発する。
で、その夫妻には娘がいて、実はその娘がこの業界でもそこそこ大手のラグナロクに勤めているらしい、カエルの子はカエルというか娘も大学時代はずっと首席だったらしい、つまり超サラブレッドってやつらしい、女だてらに頭が切れてかなり仕事が出来るらしい、おまけになんとかなりの美人らしい、という噂が立った。
さっきもいったがここは広いようで狭い。横の繋がりが意外にも強い。噂はすぐに回った。
そこでついたあだ名がシリコンバレーのバラだ。
ショッピングモールのキチガイじみたラージサイズや人の車にガンガンぶつけて平気な顔してやがる図々しさには大分慣れたつもりだが、全くアメリカ人のこういうセンスだけは未だに理解不能だ。
…まあ、バラって例え方は上手いかもしれねえけどな。
棘だらけ、ってとこからバラってつけたと云うのなら俺はそいつのセンスに脱帽だ。
隙がなさ過ぎるんだよ、あの女。
組織行動学の中にゃ男だらけの職場で女が成功する為の服装についての研究がある。要するにああいうみたいなキャリアウーマンが組織の中で成功するにゃあ、性的な対象となりえない女を殺した仕事のプロ足り得る服装をしなきゃいけない、でも、同時に女として魅力的な格好をしなきゃならない、って議論だ。明らかに矛盾した話に聴こえるが、男の中で働くためには女らしすぎても女らしくなくてもダメっていうことなんだろう。
で、に話を戻すとまさにその相反する条件を見事に体現してやがるんだよ。
日本人なのに銀地のチャイナドレスを着ている。それが意外にもストイックで、下手なカクテルドレスよりもよっぽど凛としていて品がいい。けど、そのジャストサイズのドレスは見事に身体のラインに沿っていて、男どもは確実にその細い腰からそれほどデカくない胸へと視線を走らせてしまう。あるいは腿の中ほどから入ったスリットからチラチラしている美脚についつい目を奪われる。
そんなふうに男の下心を掻き立てるような格好をしているのに、でも全体を見るとやっぱりストイックでエロティシズムは感じられない。
あの女の立ち振る舞いや醸し出す雰囲気は服装とアンバランスなまでに恐ろしく知的だからだ。魅力的かつ理知的、胡散臭いぐらいきっちり自らの印象管理をしてやがる。
……なんつーか俺的にはヘコましたくなる類の女だ。
「コンバニャ、。どう、アキラ、云えてる、僕?」
レイがニコニコしながら俺を見上げる。俺はその頭をひとつ撫でて歩き出した。
「云えてない。挨拶は今度にするんだな、レイ。仲良くなれたら今度紹介してやるよ」
「えっ!?」
ワンテンポ遅れて俺の意図に気付いたレイが珍しくスラングで背後で罵り文句を口にした。
普段は使わないお上品な言葉が飛び出した辺り、結構シリコンバレーのバラに本気だったのだろうか。
だとしても、俺の脚はもう前に進んでしまったし、俺が大人しくしている間に馬鹿みたいに挨拶の練習をしていたレイが悪い。
しかも丁度いいことに俺が心の中で『汚い、臭い、勘違い』の3Kと呼んでいるグスタフがのこのことバラに近付いたところだった。さっきから鉄壁の笑顔を崩さなかったバラもグスタフを前に微妙に笑顔を引き攣らせる。
「久しぶりだな」
俺が声をかけるともグスタフもこっちを振り返った。
は軽く目を見開き、グスタフはいっそ清々しいくらいに嫌そうに頬を歪める。俺もこいつが大嫌いだが、こいつも俺が大嫌いに間違いない。相思相憎で実にめでたい。
盛大に顔を顰めてグスタフが例の如くチンケで低脳な理屈で俺に喧嘩を吹っかけようと口を開いたところで思わぬ事態が起きた。
「何が久しぶりだよ、ミカミ」
「お久しぶり、ミカミ」
「えっ?」
最後の台詞は俺じゃない、グスタフだ。俺は心の中で思っただけだ。
目を丸くするグスタフの横をするりとしなやかに擦り抜け、バラが俺へと艶やかに微笑みかける。
「嬉しいわ、覚えていてくれたのね」
「…こちらこそ」
俺としたことがそれしか云えなかった。
こっちでは絶対会ったことはない。けど、同じ日本人だ、向こうで会ったことがあるのかもしれない、と咄嗟にそんな在り得ないことを考えてしまったのだ。
さらにバラは悪戯っぽく笑って首を微かに傾げて見せる。
「今度会ったら一杯奢ってくださるという約束は?」
そこで漸く俺は立ち直って、バラに向かって甘ったるく微笑んでその腰へと手を伸ばした。
「もちろん。忘れるわけがない、君さえ良ければ今からでも」
「ええ、じゃあご馳走してくださるかしら」
このアマ。
ぬけぬけとほざいてくれるじゃねえか。誓って俺はこんな女と会ったことはない。
勘が当たったな、やっぱりヘコましたくなる女だ。
まだ事態について行けずにぼんやりしている低脳グスタフに揃って二人でにっこり挨拶すると俺たちは出口へと向かった。
ほんの大した距離ではないのにお互いにいちいち知人に足止めを喰らう。
今まで公の場で面識がないのはコイツらも解っているはずだが、どうせ「いつのまに」「でも日本人同士だからね」「だからやっぱり気が合ったのよ」とか大学出が80%以上を占める頭脳集団とは到底思えないほど安っぽい三段論法に何の疑いもなく落ち着くに違いない。晴れて俺たちは公認カップル扱いにされることに百ドル、って感じだ。
その手の噂が立ったとしても俺にダメージなんかないが、この女の思惑にまんまと嵌ったみたいでその点は全くもって面白くない。
選択を誤ったか? 誤ったとしたらどこで? と自分の行動を振り返る俺の横でバラがくすくすと笑った。すでに動く好奇心どもの群れからは抜けてエレベータの前に来ている。
俺が目線で何だと尋ねると、バラはにっこりと微笑む。
「結構顔に出るのね、ミカミ」
俺は思い切り顔を顰めてやった。
「腹が立ってるときは特にね」
バラはますます笑う。意外にもよく笑う女だ。最もそれだって単にそういうふうに演出しているだけかもしれないが。
「意外だわ、3Gのミカミって結構子どもっぽいのね」
今度は意識しなくとも勝手に酷い顰めっツラになった。後半の子どもっぽいも気に喰わないが、それよりその前の件が気に入らなかった。だから本当になんでそんなに最低なセンスなんだよ、こっちの人間は。
「3Gなんて知らないな、3Kなら知ってるけど」
バラがぱちぱちと瞬きをして俺を見上げる。
ああ、なんだ、本当に胸ちいせえんだな。遠くから見るともうちょっとありそうに見えたのに。
「3K? なあに、それ。聴いたことないわ」
俺はニヤリと笑うと日本語でバラの耳元で囁いてやった。生憎日本語じゃないと3Kにならないから、誰かに話すのはこれが初めてだった。
顔を寄せた華奢な首筋からは甘すぎない香水が揺蕩ってきて俺は少しいい気分になる。
「グスタフのことだ、汚い、臭い、勘違い」
バラがぷっと吹き出す。小さくて白い手で口元を覆う。その指に指輪はなかった。
「嫌だ、もう……ああ、ダメ…次に会ったら絶対私噴出すわ…でも最後の勘違いって何?」
バラも日本語で返す。
やってきたエレベータにバラをエスコートしながら俺は奴のトップシークレットを何の躊躇もなく口に乗せた。
「ヅラのこと。アイツ、自分がモテないのはハゲてる所為だと思ってるんだ」
バラが我慢できないと云ったふうに声を上げて笑い出す。おかげでその細腰に回していた俺の手から転がり出ていってしまった。
「さて…じゃあ約束どおり酒をご馳走しようと思うんだけど場所は? ちょうど部屋を取ってるんだけどそこでいい?」
「あら、急に用事を思い出しそうよ、私」
「なら上のバーなら?」
壁に背を預けながらバラはにっこりと笑う。
俺は仕方なさを装いながら最上階のボタンを押した。
どうせ本当は部屋なんか取ってない。だから、ここでアナタのお部屋でいいわなんて云われたらこっちが大慌てだ。けど、この手の女が初対面の男の部屋にのこのこ付いて行く訳がないのは解りきったことだから、まずそんな事態が生じるはずもなかったが。
わざわざ部屋を取ってあることを臭わせたのはこの後一杯引っ掛けたら本当に部屋に連れ込む為の布石でもあるし、この女の無意識下にすぐそこのベッドの存在を刷り込んでおきたかったからだ。
最上階に着いたので、エレベータを降りる。再び腰に手を回してみたが、つねられたりやんわりと押しやられたりすることはなかった。良好な反応だ。
カウンターで飲みながら低脳グスタフのことや業界のことについて語り合う。何の為にここに来たのかを見失ってるとしか思えないほど色気がない会話だが、かといって無理やり軌道修正しようとは思えない。
身に纏う雰囲気どおり、この女は非常に高い教育を受けた人間だ。
話をしていて面白い。俺の云ったことをいちいち訊き返すことはないし、人を退屈させない話し方も心得ている。女らしいのに媚びたところはない、虚勢を張ろうと変に自分をひけらかすこともない、ただ淡々と清んだ声で的確な台詞を紡ぐ。
訂正が必要なようだ。
バラはヘコましたくなる女というよりはその貞淑な笑顔を淫らな泣き顔にさせてみたくなる女だったらしい。
電話が鳴った振りをして俺は途中で席を立った。バーを一回出て、フロントに電話する。やってきたフロントマンから鍵を受け取ってサインをすると俺は何喰わぬ顔でバーに戻った。
そういえばあの女が下手に技術的なことにまで詳しいもんだから、そっちに気を取られて訊き出すのを怠っていたが、そもそも何故あの女は俺を誘うような真似をしたのだろう。
初対面の男を手当たり次第に撃ち落とすのを趣味としているような尻軽には見えない、それ以上にまずそんな馬鹿を出来る女があんな徹底した印象管理をするはずがない。
付き纏う男でもいて、俺との噂が立つことでそいつを牽制しようとでもいう腹なんだろうか。
まあ、いい。予測や憶測に頭を悩ますのはビジネスの場だけで十分だ。どうせ夜は長い、精々気持ち良くしてやって優しく本音を引き出してやればいい。
近付く俺を見てバラは親しげに俺に微笑みかけた。俺も微笑み返す。
「悪い、急ぎの電話だった。で、さらに悪いんだけど、部屋に戻って確認しなきゃならない書類があるんだ。いっそ部屋で飲まないか?」
しかし、俺が席に着いた途端、バラは思いもよらないことを笑顔で口にした。
「あら、なら私はそろそろ失礼するわ。ご馳走様、ミカミ」
俺は少々面食らって咄嗟にその細い手首を掴んでしまった。
「待てよ、もう少しぐらいいいだろ」
「明日朝から会議なの。だから、私ももう帰らなきゃいけなかったとこなの、あなたも忙しいようだし、ちょうどいいタイミングだわ。どうもありがとう、楽しかったわ」
その問答無用なまでに鉄壁の笑顔に俺は引き下がるしかないことを悟った。ここで喰い下がれば喰い下がるほど恥をかくのは俺だ。
「最後にひとつ質問しても?」
畜生と思いつつ今夜俺のものになる予定だった手首を開放する。
バラは優雅に腰を上げながらまるで女王が臣下に許しを施すようににっこりと微笑む。俺はまた畜生と思いながら質問をぶつける。
「何故俺を?」
酷く散文的な問になった。酔ってなどいないつもりだったが、急に体内のアルコールの存在を思い出す。
バラはまた微笑むとグラスに残っていた紅いチェリーに指を伸ばした。バラが飲んでいたのは確かメリーウィドウというブランデーベースのカクテルだった。
「3Gの三上亮に興味があったから。あなた、この街じゃ有名人だもの。お会いできて光栄だったわ」
俺の唇の間にチェリーを割り込ませるとバラは背を向けた。
「ああ、そうそう」
憮然としてチェリーを噛み砕いているとバラは思わせぶりに振り返った。俺は目だけをそちらに向ける。
細めた瞳と視線が絡む。
さっきまでの貞淑さを見事なまでに捨て去って嫣然とした極上の笑みをバラは零した。
「フィッシャー先生はお元気かしら?」
ごくりとチェリーの塊が咽喉を滑り落ちる。
その一言に固まった俺を最早顧みることもなく、軽く十センチはありそうなヒールを難なく操りながらバラは綺麗な姿勢で歩き去る。
…………やられた。
間違いなくフィッシャー先生というのは、大学時代の俺の恩師のロバート・フィッシャー教授のことだろう。
最悪だ。
まさかバラがフィッシャー教授の知り合いだったとは。
だが在り得ないことじゃない、あの人の顔の広さは半端じゃないから。
畜生、いつもは展示会の二日後ぐらいにかかってくる教授からの電話がどうりで今朝かかってくるはずだ。白々しくスタートアップに向けての準備は順調かねとか尋ねてきたが、アレは俺が懇親会に出席するかどうかを確認するのが狙いだったに違いない。
煙草に火を点けて、煙と一緒に溜息を吐き出す。
つまりこれは要するに認めたくはないがアレだろう。
俺はハメられたのだ、フィッシャー教授とあの棘だらけのバラに。
あの女は俺の性格も俺のやり口も最初から全部お見通しの上で据え膳を装い俺にわざわざ部屋をとらせてからとんずらしやがったのだ。
何の為になんて考えるだけ無駄だ。こういう非生産的な行動に人間を駆り立てる時のモティベーションなんてたったひとつだ。
面白いからに決まってる。
脳裏にフィッシャー教授の一見人畜無害そうな笑顔が浮かぶ。くそっ。研究室の奴らと、それにアズールやスティーブたちも巻き込んで絶対賭けてやがったに違いない。
今頃あの女から教授の下にレース結果が報告されていることだろう。
俺は携帯を取り出すとフィッシャー教授や悪友どもを片っ端から着信拒否に設定した。だが、携帯に出なくてもどうせパソコンの方に『騙されておめでとう』メールが大量に送りつけられてくるに違いない。虚しい抵抗だ。
畜生。
今住んでるとこはこのホテルからなら歩いても十五分ぐらいなのに、今夜はここで一人寂しくシーツに包まらなきゃならないなんて酷く間の抜けた話だ。
けど不思議と腹は立たない。むしろ段々と自分のその間抜けぶりが笑えてくる。
それに、バラに対する興味が湧いた。
最後に見せた笑顔。
それまでのお上品な笑い方じゃなくて、もっと喧嘩腰みたいなやつ。
あれは良かった。
それでこそ棘だらけのバラだ。
ああ、そうだ。バラなんて趣味の悪い呼び方、まんまとこの俺様をハメやがったあの女に失礼だ。本当の名前はなんだっけ。
酒と疲労で濁った頭で記憶を巡る。脳裏にはくるくるとあの女の顔が浮かぶ。
そう。
だ。
………」
俺は咽喉の奥で笑う。
とりあえず明日の朝、レイにちょっと予定を変更して三ヶ月ほど寄り道をすることを伝えなければならないな。
俺はビトウィーンザシーツを最後の一杯にするとバーを後にした。
乱れることのない清潔なダブルベッドで一人寂しく夢を見る為に。