あくびを噛み殺しつつ、あたしはかっつんかっつんヒールを鳴らしていつもの夜道を歩いていた。

昨夜はあれから平均時速100キロで郊外の病院に行って(やっぱり怒られてましたよ、布っきれ捲いただけで放置するなんてもっと暑い時期だったら化膿して大変なことになってたぞって。それから9針も縫われて、その間あんまりイタイイタイって喚くから思わず煩いってべしっと殴ったら初老のお医者様にいや縫ってる最中にいくらなんでもそれは危ないよ、と冷静に突っ込みを頂いてしまいました)、家に帰ってきたのが2時過ぎで、それから途中のコンビニで買ってきた飲み物とお菓子片手に延々大捜査線大会やって。

新聞配達なんて今時レトロなバイトを理由に城之内少年は明け方には帰っていったけど、フフフ、すっかり青島にハマったらしくきらきらした瞳をして帰っていきましたよ。

全話見られなかったことを心底無念そうな顔していたのが脳裏によみがえって思わずニヤリとして、ついでに誰も見てないからいっかーとついに隠しもせずに欠伸を零す。

どうせあたしに視線を向けているのは中空できらめく、丁度月齢15ぐらいのあと一歩満たされていない可哀想なお月様だけだ。

エントランスの脇の植え込みを通り過ぎるとき、まさか居ないよな、とかちょっと思ったけどやっぱり居なかった。
あたしは自分に云い聞かせるように大きく安堵の溜息を吐く。

それからオートロックの扉を抜けて、その向こうのエレベータに乗り込む。
空っぽの孤独な箱に乗り込んで壁に寄りかかってガラス越しの中庭をぼんやりと見下ろしていると、あたしの頭の中では昨夜のことが勝手に反芻されていく。


……うん、まあ、昨夜のはらしくもない人道的支援だ。
あたしも弱っていたし、あの子も弱っていた。
ただあたしの方が冷静で、そして助けられるだけの力を持っていたから、それをちょっと与えてみただけだ。

まるで未練みたいにこうしてだらだらと思い出してしまうのは、一種異常な状況に対する物珍しさや非日常への憧憬がそうさせるだけ。
明日になって、明後日になって、新しい情報が打ち込まれる度にどんどん昨夜のことは劣化していって、昔のつまらない記憶同様にそのうち全く思い出さなくなるだろう。

エレベータを降りて、あたしは乱暴に記憶を振り払い、意識を仕事のことへと移す。
家でまで仕事なんて本来冗談じゃないけど、今回はそうも云ってられない。やっとかないと困るのはあたしだ、些細なミスが命取り、書類一枚足りないだけで全部がポシャることもある。ミスった結果、ビジネスはなかったことになるかもしれないけど、あたしの責任も一緒になくなるわけじゃない。クビにはならないかもしれないけど、これまでの努力も実績もパア、二度と良い仕事なんて回してもらえなくなる。

ご飯の後にやらなきゃいけないことリストを組立ながらカギを開けてあたしは凍りついた。





…………なに、この、かていりょうりっぽい、においは。

……つーか、つーか、なに、このみおぼえってゆーか、きのうみたばっかのこぎたない、えあまっくすは。



硬直してるあたしの耳に調子のいい口笛が届く。
うわあ、どうしましょう、この曲(リズムアンドポリス。云わずと知れた踊る大捜査線のテーマ曲だ)聴いてこんなにムカついたの初めてだわーってそんな場合か!

あたしはお気に入りのノーベスパジオのバックストラップシューズを玄関のドアにぶん投げる勢いで脱ぎ捨てた。

「ちょっとアンタ何してんの!!」

どすどすと猛々しい足音で居間に乗り込むと、白い包帯も眩しいクソガキが冷蔵庫のフックにかけてあったはずのあたしの紅いエプロンを勝手に腰に捲いてキッチンで鍋に向かっていた。

「あ、おかえりー。ゴハンにする?オフロにする?それともアタシにするー、なーんちゃって!」
「…テメエ、あたしは人ン家で何してんのかって訊いてんだよ」

あたしのどす黒い呟きに、鍋の火を止めて振り返りながらクソガキが苦笑する。

「えーとドラマの続きも気になるし、今日も泊めて欲しいなーって」
「却下、今すぐ出てけ、つーかテメエどうやってこの部屋に侵入しやがった」
「え?管理人さんに弟ですーカギないんですけど開けてくれませんかーって。朝出るときに偶々会って、あ、おはようございまーす、はじめましてー、の弟でーす、いつも姉がお世話になってまーすって挨拶しといたから楽勝だった」

全然似てねぇだろうが……っ!
あのハゲ(最早断定)、ブっ殺す!!

握り締める拳に殺意を漲らせるあたしに向かってクソガキが歩み寄ってくるから一歩下がって距離を取る。
ぐるぐる血が巡ってアドレナリン出しまくりの頭の方は放っておいて、どこか冷えてる感覚だけで背後のドアまでどれぐらいなのか安全確認をしておく。

「なあ、頼むよ、今日も泊めてくれよ」
「却下。出てけ。つーか解ってんの?今でも十分不法侵入って犯罪なんだけど?今すぐ出て行かないなら警察呼ぶから」
「頼む!」
「はい、警察決定」

あたしは鞄から携帯を取り出した。
が、一瞬で距離を埋めたクソガキにそれを奪い取られてしまう。

あたしは思わず立ち竦む。

今の動きがもう単純に素早いとかそういうレベルじゃなしに、サルとかライオンみたいなあまりにも獣じみた動きだったからあたしは本能的に恐怖を感じてしまったのだ。
そんなあたしの瞠目の意味に気が付いたのか、クソガキが申し訳なさそうにあたしから一歩離れてこめかみの辺りを掻く。

「ごめん…でも警察は勘弁な」

我に返ったあたしは舌打ちでクソガキの謝罪を弾き飛ばす。

ああもう。
やっぱり慈善事業なんかやるもんじゃねぇな。
ろくな目にあわない。

息を吸って腹に力を込める。

ここはあたしの部屋だ。
あたしが好むもの、あたしが執着を示すもの、あたしが心地良いと感じるもので構成された、いわばあたしの内面が曝け出されているあたしという名の王国だ。

それをずかずかずか傍若無人に国境を侵犯されてハイソウデスカで済ませられるわけがない。
あたし自身が許可を与えた昨夜はともかく、今日のこれは明らかな侵略行為だ。
罰せられるべきだろ、当然。

そう云い聞かせて、恐怖心を捻じ伏せる。
あたしはこれまでだって一人で生きてきた。
貫く価値がある信念を守るために誰とだって戦ってきたし、暴力で支配しようとするような下賎な男なんて反対に半殺しの目に遭わせてきた。

目の前のガキを睨み据える。
大丈夫だ。
恐くなんかない。

絶対、あたしがこんなガキに負ける訳がない。

「あのさぁ、俺ほんと迷惑かけないから。メシの仕度も掃除も洗濯もするし、ああ、そうだ、人間じゃなくてペットだと思ってくれていいから置いてください」
「ここにこうして居られるだけで既に迷惑なんだよ」

あたしは吐き捨てるといきなり腕を振りかぶる。
咄嗟に身体を仰け反らせたその顔目掛けてバックを投げつけ踵を返す。
激突する寸前に空中でバッグを弾き飛ばし、あたしの3歩をたったの1歩でチャラにしたクソガキがあたしの左腕を掴んだ。

目論見通りだ。

捕まれたその腕を引っ張ると逃がすまいと追いかけてくる。手首に喰い込む指に顔を顰めながら狙いを定めた。腕に注意が向いた所為でお腹の辺りは隙だらけだ。
あたしは捕まれていない方の右手で容赦なくクソガキの鳩尾を抉った。
高校まで空手部で県大会まで出たし、勤め始めてからはダイエットも兼ねてボクシングジムに通ってる。

けど、おそらくこのガキのがあたしより強い。
だからわざと叩き落とせる勢いでバッグを投げて、掴めるように腕を残した。
このガキが動く方があたしより速いのは証明済みなんだから、当たり前の計算で普通にやって勝ち目はないし逃げられるわけがない。
培った知力はこういうときの為のもの、戦略は遠回りだろうが確実に。


一瞬息を詰まらせて僅かに前のめりになった身体にさらに膝蹴りを一発。何だか布の裂ける音。緩んだ腕を乱暴に引き千切って玄関へと引き返す。
さっきまで履いていたハイヒールじゃなく、出しっぱなしになっていた運転するとき専用のエルメスのスニーカーに脚を突っ込む。

走り難さ全開のはずのタイトスカートなのにあんまり抵抗感は無い。ちらりと見たら……右の縫い目に数分前にはなかったスリットができていた。さっきの音はコレらしい。内心溜息を吐きながらあたしは階段へ向かって猛ダッシュ、辿り着くと下りるというより落下しているようなスピードで3段抜かしで階段を駆け抜ける。

電話が駄目なら直接交番に行く。

住人は当てにならない。
都会のマンションにありがちにあたしは隣の住人がどんな奴かなんて知らない。だからピンポン鳴らしてそれだけでもうお手軽に助けてくれるとは思えない、というかあたしだっていきなり知らない奴に助けて云われたって恐くてドアなんて開けられない。悪いけど見捨てる、自分のが可愛いもの。だから、お互い様だから怨むつもりもない。

管理人も当てにならない。
一階に住む管理人のハゲ親父なんか住人よりもっと当てにならない。だってなんの身元確認しないで玄関通しちゃうバカだし、あたし以上に弱そうなあのハゲなんて戦力外通告だ。よしんば管理人室に逃げ込んでも、もしどん詰まりの位置にあるあの部屋に侵入されて暴れられたりしたらそれこそアウトだ、逃げ場がない。

やっぱり交番が最良だと結論付けるあたしの背中を追いかけてくる音が不意にふたつに重なったけど振り向かない。
解りきった確認なんてするだけ無駄、些細な判断ミスが致命傷になる。
いつだってそうだ。

乱反射する轟音を身体中に纏わりつかせて、一階に到着すると階段から転げ出るようにして直線の廊下へと飛び出す。
さっき使ったばかりのエレベータの前を横切り、無表情に並んだ個人用ポストと、カーテンの引かれた管理人室の小窓に呪いの言葉を吐きつけながら走り抜ける。

エントランスの短い階段を飛び降りると、靴の下で砂利が滑って転倒しそうになる。敷き詰められたタイルに片手を突くことで何とか持ちこたえ、あたしは直角に曲がってエントランスの脇の植え込みを4秒で制覇して道路に飛び出す。

火事だーとか叫ぶことも考えたけど、羞恥心が躊躇わせる。

だって、ここで人を呼ぶってことはあたしさらし者決定よ?
あたしは昨日合意の上であのガキを家に上げてしまって、おまけに医者にも連れて行ってしまった。警察に駆け込んでも「アンタにも責任あるよ」って具合に嫌な顔されること請け合いだ。医者に頼んで連絡させなかったことがバレたら説教も確実だし。

それが解り切ってるのに、大騒ぎして人を集めたくない。
警察に説教(しかもほとんど9割がた自業自得の理由で)喰らってるとこなんて近所に見られたらあたしは即日夜逃げするね。

幸いこうして無事にマンションを脱出したし、脚にも持久力にも自信がある。瞬発力で敵
わなくても持久戦なら負けないつもりだ。
あーあ…まさか免許の更新以外で警察に御厄介になる日がこようとは。せめて対応にあたる警察官が青島似なことを祈るばかりだわ。
あたしは頭の中で地図を開いて、地面を蹴る脚にさらに力を込めた。
駅前に交番があるから、とにかくそこに行こう。




……といったふうに駅前の交番の青島似の巡査とこれをきっかけに恋に落ちる予定だったんですが。

「ちょっと待てって!」

ギャー!!(超動揺)
な、なんで追いつかれてるのあたし!?

「放せよこのクソガキ!」

内心の動揺を隠してあたしは思いっきり怒鳴りつける。

不味いどころじゃないよ、この状況は。
あまりのアンラッキーぶりにむしろ拍手したいぐらいだ。

あああああなんて場所で捕まってるかなあたしはー。
あと100メートルもない大通りには人がいっぱい行き来してんのにどうして人通りの少ない高架下なんかで捕まっちゃうかな、もー!!
煙草吸ってるしヤンキーみたいな外見だし、どうせ不健康な生活送ってるんだから普通持久力なんかないでしょ?なのになんでこいつはあたしに追いついてんの?何?あたしが歳取ったとでも云いたいワケ!?(八つ当たり)

荒い息を吐きながらクソガキを睨みつける。
頭の中では馬鹿な口調で喚いているけど、ほんとは全然余裕がない。

走った所為とこの最悪の状況に心臓が頭の中に移動したみたいにがんがん鳴ってる音がする。
この状況は本当に笑えない。

クソガキの方はあたしほど息が乱れていない。
御覧の通りこのガキにあたしは肉体的に敵わなくて、現在この場所には誰も居なくて、昨日会っただけのこいつの素性をあたしは知らないし、ましてや周囲が知ってる訳もない。
明日あたしの姿がなくなったって、誰もこいつの仕業だなんて想像もしないだろう。

瞬きみたいにちかちか光る切れかけの電灯の下、あたしは自分の判断ミスをなじる。考えが甘かった。過信と侮り。
恥だろうとなんだろうと叫べば良かった。

「……放せっつってんだろ。聴こえねーのかよ」

緊張を押し殺して、とにかく不機嫌そうにぶっきらぼうに吐き捨てる。
ほんとは恐くて震えそうで手のひらなんて汗が滲んできてる。掴まれた腕も痛い。さっきと違って、多分振り回しても外れない。怖い。嫌だ。でも、怯えていることがバレたら余計に不味いことになる、そう思ってなんでもない顔を繕う。

「話聴いてくれよ」

城之内少年が困ったように小首を傾げる。
全然悪意の感じられない顔。
けど、そんなの『フリ』だけかもしれない、そんな上っ面に容易く引っかかるほどあたしは清純じゃない。

「聴かない。放して」
「聴くまで放さねー。とにかく警察は止めてくれ」

叫びだしたいぐらいの緊張感にじわじわと苛立ってくる。

走って疲れたし掴まれた腕は痛い。
人の家に不法侵入した挙句警察は勘弁してくれ?
冗談じゃない、何だそれは。

頭上の高架が少しばかり揺れ始めた。

今時の若い子のよく使う逆ギレって言葉が頭をすり抜ける。
ああなるほどね、こういうことかと昨日までは理解できなかった単語がすとんと綺麗に腑に落ちる。

目の前の城之内少年が今直ぐあたしをどうこうしようとするような粗暴な空気を纏ってなかったのも理由のひとつだろう。
臨界点を突破した緊張によって生じた怒りが恐怖を駆逐し始める。

あたしは捕まれてない方の左手で城之内少年の手首を掴み、射殺せそうなほどの力を込めて睨み上げた。

「さっさと放しなさい。自分がどれほど都合の良いこと云ってるか解ってる?図々しいにも程がある。アンタみたいのはいっぺん警察に捕まって痛い目見ればいいのよ。親に迎えに来てもらってその怪我の分もまとめて説教喰らいなさい」
「親は迎えになんかこねぇよ」

かすかに低くなったその声にあたしはどきりとする。
城之内少年の顔つきが微妙に変わった。睨むのとはちょっと違う、何の色も浮かべてない冷たい目であたしを見下ろしてくる。

その急激な変化にかなりの後悔を抱きながらも、それでもあたしは虚勢を張って睨みつけるのを止めなかった。

「馬鹿じゃない?アンタがそう思ってるだけでしょ、普通はくるわ…」

云ってから今度こそ本当に後悔した。
冷たくなった目が一瞬にして火を噴いた。

「フツウじゃねぇんだよ!」

突然怒鳴られてあたしは硬直して立ち竦む。
びっくりしてちょっとでも突付かれたらそれだけで膝が砕けてへたり込みそうだった。

「俺が何やったって来るわけがねぇんだよ、あの親父が!アイツは俺のことなんか屁とも思ってねーんだから!」

城之内少年は泥を吐き出すみたいに大声で叫ぶ。
なのに、なんだかそれは悲鳴みたいだった。

目の前の少年の背中の方から轟音が近付いてくる。

「俺は…」

潰れそうな力で握られた腕にあたしは顔を顰める。
城之内少年の顔も痛みを覚えたように歪む。




「俺は           」




駆け抜ける電車の音が城之内少年の声を掻き消した。

でも、あたしにはその声が届いてしまった。

目を見張るあたしの視線に傷ついたみたいに顔を背ける。
金の髪に半分隠されたその口元は砕けそうなほど強く噛み締められていた。

「アンタ…」
「どうしました?」

その声と突然向けられたライトの眩しさに仰天する。

驚いて振り返ると、さっきまであれほど恋しかったお巡りさんがちゃりんこに跨ってこっちに懐中電灯を向けていた。

「あ、お…え……こんばんは、お勤めご苦労様です」

あたしは社会人経験で培った余所行きの声と営業用の笑顔で物凄い強引ににっこりとお巡りさんに挨拶した。
だが、微笑みつつもさっきとは違う汗が全身から噴出し始める。

ど、どうしよう、どうしたら誤魔化せる?

えーとえーと。
痴話喧嘩?
うわーこんな完璧OLなのがバレバレなあたしと学ラン着用のお城ちゃんで?

無理、ありすぎ(即答)。

しかもこの高架下で腕掴まれてるシチュエーションってどうよ?
すっごい怪しいわよ、これ。

「あっ!コラっ!」

うわーうわーどうしようとか内心汗だらだらにあたしがなっている間に、なんとお城ちゃんはばっと身を翻してあたしの手もお巡りさんの制止も振り切り、お巡りさんの居るのと反対の方向に駆け出していってしまいましたとさ。

…………。
……………………。
ちょ、ちょっと待てー!!(内心絶叫)


あたしだけ残していくなよあたしにこの状況をどう説明しろっていうのよてゆーか職質とかされるんじゃないこのまま行くと?

そのまますぃ〜と素通りしてってくれ〜というあたしの願いも虚しく、お巡りさんがすぃ〜とあたしの横にチャリを寄せてくる(できることならあたしも走って逃げたい。泣きそう)。

「大丈夫ですか?」
「ええ、別になんともありませんよ?偶々久々に会って立ち話していただけですから」

内心焦りと憤懣やるかたない思いでいっぱいいっぱいになりながら、鉄壁の笑顔で突っ込みを受ける前に予防線張りまくりの返事をする。

お巡りさんは懐中電灯をしまいながら、ちょっと苦笑交じりに気さくな笑顔を浮かべた。

「いやあ、女性の方に乱暴はしないだろうと思いつつ、アイツも思い込み激しいとこがあるから一目惚れしたお姉さんに強引に迫ってるのかなとか思ってしまって。驚かせてしまって申し訳ありませんでした。でもアイツも逃げることもないですよね、捕まえるつもりで声かけたんじゃないんだし」

……なんだ、この話し振りは。
あたしは不審な顔にならないように気を付けつつ、笑顔を維持しながらできるだけさらりとした口調で疑問を口にしてみる。

「きっと私なんかと一緒に居るところを目撃されて恥ずかしかったんでしょう、あれくらいの男の子って変なところで気難しいですから。あの、失礼ですがお巡りさんは、お、じょ…うのうちくんを、ご存知なんですか?」

まだ四十前と思しきお巡りさんの苦笑が益々深くなる。でもそれは心底苦いものではない、かえって正反対に親しみを滲ませる類のものだった。

「知っているというか…あの子は半分ウチの署で育てたような子ですからねぇ…」
「え?」

意味が解らず瞬くあたしに、お巡りさんは少しだけ哀しげに微笑んだのだった。




あたしがマンションに帰りついたのは、多分飛び出してから2時間近く経過してからだった。

あの後、お巡りさんと別れたあたしは真っ直ぐ帰途には着かず、ふらりとコンビニに立ち寄ってどうでもいいような雑誌をぺらぺらと眺めた。本当に眺めただけだから、見た内容は全然頭に残ってない。

立ち読みの代償に何か買おうと思って牛乳プリンを手に取ったんだけど、よく考えたらあたしは財布なんて持ってなくて、仕方ないので一旦手に取ったくせにそれを再び棚に戻した。

店を出たときにガラスに映った姿は何だかちぐはぐだった。
黒のカシュクールシャツに黒のタイトスカート、それに白いスニーカーはちっとも合ってない。

そのちぐはぐな格好で夜空の下を闊歩する。

頭の中はでぐるぐるといろんなことが渦巻いている。意図しなくともあたしの頭脳は勝手に事実に解釈を加えて仮説を構築していく。
そのままぼんやり歩いていたら、帰巣本能が働いたのかいつのまにかマンションの前まで来ていた。

街灯の明かりを避けるみたいなエントランスの脇の植え込みのすみっこ、そこにあたしは想像通りのものを見つけて微笑んだ。

昨日と同じようにあたしはそこに脚を踏み入れる。

「………ごめん。鞄、部屋に置きっぱなしなんだ」

植え込みと同化しようと頑張ってるみたいに、膝を抱えた体育座りでお城ちゃんが酷く神妙な顔で見上げてくる。
その生真面目な表情が何だかおかしくて、あたしは笑い出しそうだった。

「あの、わりーけど取ってきてくんねーかな…」
「嫌」

途端にお城ちゃんの顔が見事に曇って、その捨て犬みたいな表情に本当はもう少し苛めてやろうかと思っていたけど止めてあげることにした。

手を伸ばして金色の頭を撫でてみる。
いつからここでじっとしていたのか、その髪は夜気に染まってすっかり冷えていた。

「なんであたしがアンタの為にわざわざ往復しなきゃならないのよ。ちゃんと自分で取りにきなさい」




「オジャマします」

人の留守中に勝手に上がりこみ、あまつさえ台所を無断借用したくせに今度はずいぶんと遠慮がちだ。

さっきぶっとばした分の靴もあたしが揃えてる間も奥へは行かずに、すぐ傍で従順にあたしを待っている。
あらあら、ほんとに犬みたいだわ、これじゃ。

居間に入って、あたしがさっき投げ捨てたバッグを拾い上げてると、お城ちゃんもソファの足元に置いてあった薄っぺらな学生鞄に手を伸ばす。
まあまあ。
外見を裏切らない非勤勉ぶりが窺えるわねぇ。

屈んだ身体を起こしたところで目が合う。
でもお城ちゃんはすぐに顔を背けて、あたしの視線から逃げた。

「ゴメンな、もう来ないって誓うから勘弁な。じゃ」

それだけ云って顔を下に向けたまま足早にあたしの脇を通り過ぎようとする。


「その腕、お父さんにやられたの?」


お城ちゃんがびくりと肩を震わせた。

「あたしは昨日アンタが病院に行けないのは、親にそんな酷い怪我するほどの喧嘩をしたのがバレたら困るからだと思ったわ。でも実際は反対だったのね。アンタは、アンタがそんな怪我して病院に行ったら、アンタん家の事情を知っているこの近所の病院からどう思われるか知っていた。
 アンタは父親を庇って病院に行かなかった」

振り向かない背中は暗黙の肯定だった。
彼にあんな酷い傷を負わせたのはやはり実の父親なのだ。


『あの子は半分ウチの署で育てたような子ですから』


小学生のときに両親が離婚。母親は何故か妹のみを連れていった為に、城之内克也は父子家庭で育った。
だがその父親は重度のアル中で、ろくに働きもせず酒びたり。近辺の飲み屋や競馬場で騒動を起こしては警察の厄介になっている。
多額の借金も抱えており、その取立て人が怒鳴り散らし騒音を立てるものだから、近所の人の通報によりその度にまたもや警察が世話を焼いている。

そんな父親がまともな育児をするだろうか?

答えがノーなのは明らかだ。
ろくに食事も与えられない、挙句の果てには鬱憤を晴らすかのように理由のない暴力を受ける子どもを度々警察は保護した。
児童福祉施設に入れたこともあったが、城之内少年は3日と経たない内に自力で戻ってきてしまう。小学三年生になった頃、目が開かないほど右の目蓋を腫らした少年を見るに見かねてお巡りさんは尋ねたそうだ。おじさんの子になる気はあるかい?と。少年は唇をぎゅっと結んで首を横に振り続けたそうだ。
骨を折られようが、失明しそうなぐらいぶん殴られようが、どんなにろくでなしの父親でも彼にとってはそれでも『父親』だったのだろう。

唯一の還るべき居場所だったのだろう。

「………昨日は本気で、全然酔った目じゃなく、正気の顔して包丁持って斬りかかってきた。最近、稼ぎが悪いって、学校なんか行ってないで辞めて働けって云われた。冗談じゃねぇ、そんなに金が欲しけりゃ自分で働けよって怒鳴ったら、包丁持ってきて…お前なんか、カネ持ってこねえなら死んじまえって…お前なんか…」

かすれた声が悪夢みたいな現実を語る。
拳に握った両手が顔に押し当てられたけど、言葉が途切れたのはその手が唇を塞いだからじゃない。
彼が隠したのは唇じゃなく、目だ。

「お前なんか、い…」
「アンタはいらない子どもなんかじゃない」

それは普通誰だって聴きたくない言葉だ。
いらない、なんて。
よりによって親にお前なんていらない、なんて云われたら誰だって傷付くだろう。
でもそれこそが彼の脳裏に深く刻まれて、今も彼を苦しめているものの正体なのだ。

俺はいらない子どもなんだよ、さっき彼は高架下でそう叫んだ、血を吐くように。

お城ちゃんの背中が痛みを堪えるように丸まる。
あたしはその身体を引き寄せた。幼児をあやすように、あたしよりよっぽど硬くて頑丈な背中を撫でてやる。

「お父さん、完全にアル中なんでしょ?正気に見えたって酔っぱらってたのかもしれないじゃない。酔っ払いの云うこと信じるなんて馬鹿よ。あたしだって普通に歩いて家に帰ったくせして、次の日何にも覚えてないことがあるもの。お酒ってそんなもんよ」

あたしの腕の中でお城ちゃんがイヤイヤをする駄々っ子みたいに首を振る。あたしは頬をその金の髪に寄せて、肩に押し付けることで自分で自分を痛めつけるような否定の表現を強引に停止させた。

「経験豊富なお姉さんの云うことが信じられないの?若いアンタにはまだ解んないかもしれないけど、年取ると年々酒も弱くなるのよ。そうするとねぇ、ちょっと人格変わったり、ストレスぶちまけちゃうものなの、大人は」
「俺…俺は…」

あたしの耳のすぐ下で、嗚咽を殺そうと苦しげな呼吸を繰り返す。
何かを口にしようとお城ちゃんは足掻くけど、あたしは渾身の力で抱き締めてやることでそれを邪魔する。
だって、あんな台詞は二度と云わせたくない。さっきの高架下、突き刺すような激しさで叫んだくせにその顔は今にも泣き出しそうだった。

「よしよし、男の子でしょ、そんなに泣かないの」

多分あたしが男だったらこんな思いっきり泣かない。
同じように同年代の女の子でもこんなふうに泣かないに違いない。
あたしが女で年上だから城之内少年はこんなにも脆弱な自分を曝け出して泣き叫べるのだろう。
云ってみれば幼い頃に姿を消した母親の姿をあたしに投影させてるようなものだ。

「大丈夫よ。アンタはいらない子どもなんかじゃないわ」

白々しいくらい優しい声で繰り返す。
母親が赤ん坊にするみたいに頬を寄せ背を撫でて抱き締めてやった。

でも、子どもを本当に殺そうとする親がいることを誰よりあたしが知っている。

あたしより背の高い幼子を抱きながら私は何度も優しい嘘を吐き続けた。





「イデッ!」
「どさくさに紛れてケツさわろうとしてんじゃねえ、クソガキ」

拳骨を喰らわせるとお城ちゃんの身体がするりとほどけた。
全く泣き止んだと思ったら調子に乗りやがってこのエロガキめ。

あたしはすっくと立ち上がると腰に手をあて後頭部を抱えて呻いているお城ちゃんを見下ろした。

「お城ちゃん」
「ハヒ、なんですか、女王様」
「いい加減そのネタ止めろ」

がすっと蹴りを入れると丁度昨日縫ったばかりの傷にヒットしてお城ちゃんが聴き苦しい悲鳴を上げた。

「うるさいわね、ちょっと黙んなさいよ、聴くに耐えないわ」
「…ひっ、ひっでー!俺ケガ人なのに!」
「よく云うわよ、アンタ昨日はハンカチ一枚巻いただけで放置してたくせに。アレで我慢できてたんだから、ちょっと蹴られたぐらい我慢できるでしょ」
「……ちょっとだって、思いっきり蹴っといて図々しいのな」
「何か云ったかしら?あ、もう一発欲しいのね?」

お城ちゃんがしゃかしゃかとゴキブリのような動きで遠ざかる。
……嫌だわ、あの動き。犬ならまだ飼ってもいいけどゴキブリみたいなのは勘弁して欲しいわね。

あたしはしゃがみこむとちっちっちっとお城ちゃんを招く。

「解ったわよ、もう蹴らないからこっちおいで」
「ほんと?」
「ハイハイ、ほんとうよ……アンタがこれ以上馬鹿な真似しないならね」
「今なんか呟いただろ!なんかコワイこと最後に云ってたろ!」
「煩いわねぇ…」

私が拳を握るとお城ちゃんはぴたりと黙った。
やっぱりバカを躾けるには鉄拳制裁が有効か。

コイコイと手招くと正座したままずーるずーるとフローリングを移動してくる。ちゃんと掃除してるけどさぁ…それじゃほとんど雑巾がけしてんのと同じじゃない。制服汚れるとか考えないのかしらね。

溜息を吐いてあたしはお城ちゃんの額に人差し指を押し当てた。
たったそれだけなのに、お城ちゃんの肩はびくりと跳ねた。

「いい?アンタがちゃんと良い子にしてあたしの云い付け守るならここに置いてあげてもいいわ」
「……マジ?」
「マジ」

あたしがにっこりすると、お城ちゃんの顔にもぱあっと笑顔が広がった。

「サンキュー!さん、俺」
「ただしペットとして」

お城ちゃんの笑顔が一瞬で固まる。

「置いてあげるからにはきちんと食事も与えてあげるしお風呂も使わせてあげるわ。
 洗濯機は使っていいけど自分でやりなさいね、あたしはあたしの分しかやらないから。あたしのものと一緒に洗ったりしても殺すし、あたしのものを勝手に洗っても殺すので気を付けるように。
 寝るとこは向こうの空き部屋を使っていいわ、けど汚したり散らかしまくっても殺す。当然友達とかをこのウチに連れてくることは禁止。もし私の留守中に勝手に誰かを引き入れたりしているのが解ったら……アンタどうなるか解るわよねぇ?
 あと、あっちの私の部屋に無断で入ったりしたら本気でぶっ殺すから。掃除してあげようと思ったとか云い訳にもならないような台詞を吐いた瞬間追い出すからそのつもりでいるように。
 それと最も重要なことだけど、アンタは単なるペット、一緒に暮らしてても家族じゃないし恋人でもないの。だから、あたしの身体に指一本でも触れてごらん、その瞬間どんな手使ってでも2度とお天道様が拝めないようなとこにぶちこんでやるわよ」

お城ちゃんががっくりと項垂れる。

「ハヒ…お」
「因みに女王様お姉様とあたしを呼ぶ毎にペナルティとしてメシ抜きにすることが今決定したから。あと下の名前をちゃん付けで呼ぶなんて言語道断、その場合は一回呼ぶ毎に一週間のメシ抜きになるので肝に銘じておくように。あたしのことはさんと呼ぶこと、いいわね?返事は?」
「ハイ、サン…」
「よし、おりこう」

あたしはお城ちゃんの金髪をぐしゃりと撫でると立ち上がって台所に向かう。
鍋の蓋を開けてみるとじゃがいもが煮てあった。肉が見当たらない代わりにコーンが入っててバターの匂いがする。となりの鍋も覗いてみたが、全然普通の大根とお豆腐のお味噌汁だった。
見た感じヤバげな感じはしない。
これなら普通に食べられそうだ。

あたしは未だ床に蹲ってるお城ちゃんを振り返った。

「お城ちゃん、ご飯にするわよ。アンタも手伝って」
「はぁい…」

よろよろと立ち上がるお城ちゃんは何だか憔悴したような表情。
そういう顔をしていれば憂いを帯びた美少年にも見えなくはない。
いや、あたしには青田買いをするような嗜好は全くないけどね。



さて、と。

行き場をなくしたお城ちゃんを拾ったのはいいけど。
この先どうなることやら。