なんてゆーか。

今あたしの目の前に鏡なんてないんだけど、でも例えるなら落ち葉が一枚朽ちていくなんてミクロなことから銀河系消滅なんてマクロなことの因果まで全部貴様が悪いんだって全世界の皆々様から現在宇宙一不当な非難を受けてます助けてくださいっていう感じに魂抜けかけな顔してる、絶対。


あたしが『あおしまかくほー』とか『じけんはかいぎしつでおこってるんじゃない、げんばでおこってるんだー』とか年甲斐もなく一人大捜査線ごっこしながら食べるはずだった牛丼が……。
『もう絶対この人たち仲良しすぎておかしいよ!』とか『伊集院熱演過ぎてマジでやばいよ!ってうわあ生意気で袴田かわいい!』とか嬉々とした笑顔で突っ込みながらがつがつかっ込むはずだった牛丼特盛汁だくが………。

どうして物理法則を無視してるとしか思えない勢いで10分前に会ったばかりの見ず知らずのいかにも頭の悪そうな男子高校生の胃袋に吸い込まれていってるんでしょう、神様。


ああ…。
あたしの牛丼……。





「ィデっ!」

拘束が緩んだ瞬間、あたしはすばやくクソガキの手が届かないところまで下がった。
クソガキの方は膝打ちの反動そのままに後方にひっくり返る。

「……いってぇ〜…」

よし。
死んでねぇな。

あたしは踵を返した。
だって買ってからもう15分ぐらい経ってるもの。早くしないとせっかくの牛丼特盛汁だくが冷めちゃうじゃない、牛丼は冷める前に喰う、これ常識。

「ぎゃっ!?」

って、30秒前の行き倒れ高校生なんて情報を綺麗すっかりデリートして代わりに牛丼の映像で脳内を満たしたあたしの足首を潰れた蛙のように転がっていたはずのクソガキが迅速にくるりと回転すると性懲りもなく掴んだものだから危うく顔から植え込みに突っ込みそうになった。

咄嗟に牛丼を庇いつつ(当然。当たり前。むしろ自然の摂理です)、何とか膝から落ちることで無様な転倒は免れたがだがしかし。

「っぶねぇな!何てことすんだこのガキ!」

あたしも身体を捻って仰向けになると、歩行中の人間の両足首を掴むなんて危険極まりないことをしやがったクソガキの顔面目掛けて反転した瞬間拘束のとけた左脚をぶち込む。
因みに良い子は真似しちゃ駄目よ、って標語が似合いそうに先程の両足首拘束と同程度に危ない行為かも知れないけど大丈夫、あたしのは正当防衛です。

でも必殺のピンヒールを巧みに避けつつ、クソガキはより深くあたしの脚をその胸に抱きこんで意地汚く牛丼に手を伸ばしてくる。

その手を掻い潜って牛丼を死守しながら、あたしはポインテッドトゥの爪先をクソガキのほっぺにぐりぐりとめり込ませてどうにか引っぺがそうと試みる。

「お姉様!牛丼!ハラ減った!汁だく!」
「お姉様でもねぇよ!つーか単語で喋るなアホ!」
「牛丼!落ち着けお姉様、あんまり暴れるとぱん、あ黒」
「ブッ殺されてーのかクソガキー!!」
「牛丼ー!!」

それからさらに2分ほど攻防戦を繰り広げてあたしは漸く気が付いた。

いまや殆どあたしの胸に圧し掛かるようにして一心不乱に牛丼を奪おうとするクソガキ。
忘れかけていましたが実はここ、私の住んでいるマンションの前の植え込みなんですよ。
騒ぎを聞きつけて管理人でもやってきた日にはこの状況が婦女暴行どころか実は高々540円×2の吉牛を巡るせめぎあいでしたー、なーんてお茶目な説明しなくちゃいけなくなったら目も当てられない。


さん、いったいどうなさったんですか?(走り寄ってくる毎回顔を会わせる度にヅラくさいなあとつい通常よりも目線を上にをやらずにはいられなくさせる52歳独身管理人)』
『いえ、吉野家の牛丼がちょっと…(学ラン高校生に組み敷かれている独身美人OLさん) 』
『は?ぎゅうどん?(メッチャ不信な眼差し)』


……うわあ。
恥ずかしすぎる、そんなの。

一気に冷静になったあたしが抵抗を停止したので、やっとのことで牛丼の入ったビニルの持ち手を掴んだクソガキがぱあっと笑顔になる。
つーかまだやるなんて一言も云ってねぇだろが、なんだその幸福そうな面は。

「サンキュー、超美人のお姉様、これできっと天国に行けるぜ」

だからやるなんて云ってねえだろが。しかもずいぶんと安い天国だな。
てゆうか草むらで半ば縺れ合って押し倒された状況でその目的があたしの操じゃなくて牛丼て実は凄い屈辱的なことなんじゃない?あたしの価値は一杯280円の牛丼以下かよ。

それはそれはもう馬鹿馬鹿しくなって溜息を吐くと、あたしは目が笑ってないのが自分でも解る営業用の笑顔を浮かべた。

「解ったわ、あげるからとりあえず速く退いてくれるかしら?」

そう告げるとクソガキはぱちぱちと瞬いてあたしの顔を不思議そうに見て、それからその視線を下げて己がいかに無礼な真似をしくさっているかを理解するに到り、うわっとか云って慌てて飛び退く。(だがそれでも牛丼のビニルを離さなかった為、仕方ないのであたしの方が離してやった)

特盛牛丼二個をもう離さんとばかりに胸に抱え込んだクソガキを尻目にあたしは立ち上がると服に付着した芝を払った。

「ねぇ」

牛丼は離さなかったくせにそっちは放り投げていたコーチのバッグを拾うと、あたしはもう用はないとばかりに綺麗さっぱりその存在を無視して(畜生、あたしの牛丼ー!!)今度こそエントランスへ向かう。

「ねぇって」

あたしの背中に投げかけられる声は当然黙殺。
ああ…夕飯どうしよう……。
肉あったよね、仕方ないからそれ食べるか。



「ねぇってば……スカート破けてパンツ見えてんぜ、黒いヤツ」



高速でスカートに視線を落としたあたしの背後で同時に「嘘」という言葉。
…………あのー。
本当に、ぶっ殺していいですか?

振り返って睨みつけると後生大事に牛丼を胸に抱えたクソガキは困ったような顔で小首を傾げてみせる。

「くれたのはありがたいんだけどさー、こんなとこで牛丼喰ってたらヘンじゃねぇ?」

今更だろが、このガキ。
人から強奪した上何ぬかしてんだとむかむかして、止めればいいのにあたしはついつい振り返って腕を組んで仁王立ちに睨みつける。

「公園ででも食べたら良いじゃない。リストラされて行き場のない人たちがいっぱいそうしてるから君一人ぐらい混ざったって誰も気にしやしないわよ?」
「ヤダ。みっともねぇ」

…まあなんていうの?
主に殺人とか死体遺棄とかそういう系?
そんな感じにこれ以上この場に留まったら本気で犯罪を犯してしまいそうだったからあたしは今度こそ方向転換した。

「だぁっ!待てって、まだ話は終わってねぇ!」

追い縋る声を無視して脚を進める。

「なあちょっと待てって!」

つーかついてくんなよ、このガキ…っ。

ピンヒールをがんっと叩きつけるようにしていきなり振り返って睨み付けてやるとまだガキくささの残った顔が咄嗟に怯む。

「警察、呼ぶわよ」

もともとハスキーな地声をさらに低くして呟いてやると、本当に呼ぶと思っていないのかクソガキは苦笑するみたいに少し笑って見せた。

瞳を眇めると携帯を取り出す為にバッグに手を伸ばしたあたしを見てクソガキが慌てたように手を振る。

「だからちょっと待てって!」
「……何よ」

うわーすごーいと自分でも感心するほどドスの利いた声が出た。
いい加減境界線ギリギリ、いつブチ切れてもおかしくないあたしの目の前にクソガキがずいっと牛丼特盛汁だくの入ったビニルを差し出す。

は?ってあたしが眉を顰めるとムカツクぐらい自信満々な清々しい笑顔でまたアホなことをほざく。

「これを賭けてデュエルだ御姉様!御姉様が勝ったらこの汁だく特盛は御姉様のものだ!で、俺が勝ったらこれを御姉様ん家で喰わせてくれ!」


…………え〜と。
金髪だし頭悪そうだなぁとは思っていたけど?

てゆーか、そもそもソレあたしんだろ、とかさえきっともう突っ込んじゃいけないのよね?
はっきり云ってあれだけ振り回した後の牛丼なんかもう食べたくないんだけど、どうにも拒否っちゃいけないわけね?

つーかこの子、絶対通信簿に『落ち着きがありません』とかお約束なこと書かれてたに違いない。


「………オーケー、一回勝負でいいわね?」
「おう!」

くるりと腕を交差させて組み合わせた手のひらの隙間を覗き込むなんていう意味不明のオマジナイをしているカワイソウな子の肩越しにミジンコほどもやる気の出ないあたしは空を仰いだ。
あら…気が付けばお空にお星様が出てるわ〜。
明日はお洗濯ものが良く乾きそう〜。

「んじゃ行くぜ!さーいしょはグー、次はチョキ、いかりや○介あったまがパー、せーいぎーは勝つ、じゃーんけーんぽ」





というわけです(以上、回想劇終)。

おかげさまで現在あたしは「ぅうわ〜」という感じに引き攣った顔で欠食児童が物凄い勢いで牛丼をかっ喰らっていく様を見守っている訳でして。

ええと、何、この子?
普段ちゃんと食べてるの?
それとも高校生の男の子の食べっぷりなんてこんなものだったかしら?

見ているこっちが胸焼けしそうであたしはキッチンに移動した。
なんかね、特盛牛丼、こうやって改めて目の当たりにすると思いの外物凄かったんですけど。
あんなのよくも2個も買ったもんだわ、あたし。
店に入ったときは怒りと後悔で気が違っていたとしか思えない。

溜息を吐きながら冷蔵庫を開けた。
ステーキ用の肉を取り出して自分の夕食の支度にかかる。

見ず知らずの高校生を向こうに一人きりにしておくのは確かにちょっと心配ではあったけど、でもどうにも部屋を荒らしたり悪い仲間を引き入れたりしようと画策するようには思えなかった。
いえ、これは信用とかそういう類に基づいた美しい仮説ではなく、金髪に前をくつろげた学ランはガラが悪いこともないけど、それ以上に馬鹿で素直そうでそう深刻な悪事を働くようには見えない、ってゆーかぶっちゃけそんな知恵があるようには見えない。

あたしはフライパンを出しながら青い学生服に引き摺られたようにぼんやりと自分が高校生だった頃のことを考えて、付け合せとして適当に冷凍温野菜とフライドポテトをレンジに入れた頃にはいつのまにか思考はスライドしていて大学時代の悪友のことへと思考は移っていた。

イカンイカン、いくら失恋(というには全く何も無かったんですがー)したとはいえ奴とだけはどうこうなってはイカン。

「何してんの、ちゃん」
「うわ!」
「うお!?」

ぶるぶると首を振って自戒していたあたしは云わば己のインナースペースに篭っていたようなもので、第一、一人暮らしのこの部屋で他人に声をかけられるなんてことに慣れていないあたしはジャロに訴えられそうなくらい大げさに驚いた。
おまけにあたしの声に驚いた高校生がまた声を上げたもんだから煩くって仕方ない。

「…何?どうしたの?」

顰めた顔で問うてみたけど、それはまな板で肉に塩胡椒していなかったらしていた耳を塞ぐことの代わりであって、別に声をかけられたことに腹を立てたわけじゃない。

それが解っているのかいないのか、学生服の胸に当てていた手を下ろすとそれでもまだどこか怯えたようにおっかなびっくりあたしの手元を覗き込む。

「いや、何してんのかなーと思って」
「誰かさんにせっかく買ってきた夕御飯奪われたからね、仕方なく作るのよ。どうしたの、牛丼は。卵でも欲しいの?」
「うわ!何だこの肉!一枚1980円てなんだこれ!?誰が喰うんだこんなの!」
「人の話、き、い、て、る?」

包丁を掴んで差し向けると、値札の貼ってあるラップを握り締めたまま一歩下がる。

「ギブギブ、凶器はイケマセンネー、牛丼はもう喰い終った」
「はっ!?喰い終った!?」

あたしは慌ててさっきまでこの子が牛丼を貪り喰っていたダイニングテーブルを振り返った。


…………あの独特の発泡スチロールの容器がテーブルの上で2個重なっていて、そこに割り箸が無造作に突っ込んである様は遠目からにも確かに内部に質量が感じられません。


あたしは物っ凄く胡散臭そーな顔で視線を高校生に戻した。

…細い。
学ラン越しにも相当の細腰なのが解るくらい細い。
つーかあれだけの量を食べたばっかなのに全然お腹が出てないのは何で?
喧嘩売ってんの?
いったいこの身体のどこにあの胸焼けしそうな牛丼が収まっているのか……。

ブラックホール?とかつまんないこと思っているあたしの視線なんて一向に意に介さずに高校生の視線はさっきっからある一点にじーっと注がれている。

「……オイシソウだね」

まだ喰えるのかよ。

あれだけ食べてよくもまぁ……。
呆れ返るあたしを無視してひつこく肉に熱視線を注ぐ高校生。
うわーおもしろーい。
なんか口の端からヨダレっぽいのが垂れてきてるー。

あたしは嘆息すると手を拭って冷蔵庫を開けてもう1枚の肉を取り出した。

「ほら、焼いてあげるから向こうで待ってなさい」

どうして一人暮らしなのに2枚もステーキ肉を買い置きしてるのかといいますとねぇ、まあ要するにですねぇ、いい加減けじめつけようと思って今日のランチであんなことにならなければ明日にでもお夕飯食べにきませんか?とかカワイク誘うつもりだったのよ。

…………それが、どうして、いったい何故、こんな見ず知らずの高校生に振舞うことになるのか謎でしょうがないというか……あ、ヤバイ、あまりの不条理さになんだかまた腹立ってきたわ。

「マジ!?いよっ、ちゃん太っ腹!」
「ちょっと待て」

女が太っ腹なんて云われて喜ぶわけねーだろボケ、っていや突っ込むべきところはそうじゃなく、なんでこの高校生あたしの名前知ってるワケ?そういえばさっきも呼んだわよね、確か。しかもちゃんてなんだ、ちゃんて。

「どうしてあたしの名前知ってるの?」
「え?」

まさかコイツ実はストーカーでさっきのことだって周到に計画されたことじゃねぇだろうな、って一瞬頭に過ぎったけどこの顔見る限り違うわね。
未だステーキ肉に心奪われてますって感じに口開けて馬鹿丸出しの顔してる。

「だって玄関の表札に名前あったじゃん。って」
「…そう、それは解ったわ。でも何、ちゃんてのは。今日会ったばかりの目上の人にちゃん付けなんて失礼でしょう?」
「でもウチの近所のオバチャン連中、みんなちゃん付けで呼ぶと喜ぶぜ?気が若やぐわーとか云って」

枯れ切ったババアと一緒にするんじゃねぇ…っ!!


あたしは持っていた肉で引っぱたきたいのを死ぬほど我慢してにっこりと笑って見せた。
自慢じゃないけど男性上位社会で野郎どもと互角に戦い抜いてきたあたしのツラの皮は相当厚い。

「…そういえばまだ名前訊いてなかったわね。その制服、確か童実野高校のものよね、何年生?」
「あ、悪りぃ、まだ名乗ってなかったか。城之内克也、高2、趣味M&W、まあ実はその世界じゃ有名人ってゆうかまあ道を歩けばサインをねだられちゃうような実力者?みたいな」
「あそう。…あのね、お城ちゃん」
「おじょ…!?」

目を剥くその眼前にすっと手を翳す。

クソガキ改めお城ちゃんが何事かといぶかしむ隙も与えずあたしは渾身の一撃を放った。

「いっ…でー!!!」

強烈なデコピン(ちなみにあたしの握力は48キロ)を正面からまともに喰らって、額を抑えてキッチンに蹲るその背中を膝で小突く。

「あたし、自分の名前嫌いなのよね。しかもちゃん付け?ふざけないでよ。次呼んだらもっと酷いことするわよ」
「………ハヒ…女王様」
「女王様じゃねぇつっただろうが」


あたしは結局手に持ったままだったステーキ肉で城之内少年の頭を叩いたのだった。