悪いけどフォリフォリの指輪なんてあたしの給料にすれは安いもんだし。
昨日は移動の隙間に何とかデパートに滑り込んでヘレナのマスカラ買って、でも8分って見繕ってた時間が5分ですんだもんだからさっさと出ればいいのに貧乏ったらしく残った3分で思わずふらっとフォリフォリのショーケースを覗いたらちょっと好きなデザインの指輪があった。
訊いたらサイズもあったし値段も大したことないし時間もないから試着もせずにさっさとカードを出して。
それでもって今朝駅に向かいながら鞄に突っ込んだまま昨夜はすっかり忘れ去られていた指輪を出して中指に嵌めようとしたらキツイのよ、これが。
そういえばフォリフォリって他のとこよりサイズがちっちゃめだったんだ、ってことを遅まきながら思い出して朝っぱらから舌打ちひとつして中指の代わりに薬指に嵌めてみた。
あら結構いい感じ、とか晴天に向かって指を翳してみてご満悦だったんだけど。
この瞬間のあたしに今のあたしが会えるなら後ろから回し蹴り喰らわしてるわね、確実に。
その指輪の何が問題だったかというとね。
卒なく午前中のお仕事をこなして、あと少しバランスが崩れた瞬間ベッドに縺れ込みそうな関係の男とランチしてるときに事件は起こった。
オーガニックなんて語る前に煙草を止めた方が絶対長生きできると内心思いつつフォークでサラダをお上品に串刺しにしているあたしの薬指に嵌ってる指輪をふと見て奴は瞠目したかと思うと深い溜息を吐きやがった。
そして何をトチ狂ったか
『そっか…さん、恋人できちゃったか』
なんてわざとらしいくらい寂しそうに微笑みながらほざく。
はぁ?何云ってんのこの人ってあたしが困ったように小首を傾げてみせると、奴は悟ったようなツラであたしの薬指の指輪を指す。
『だってその指輪、この間までしてなかったじゃない。新しい恋人にもらったんでしょ』
馬鹿かコイツは。
あたしは自分で稼いでんだから家だって車だって指輪だって自分で買うわよ。
新しい指輪は犬のマーキングと同じ縄張りの主張かよ。
てゆーか三十代の男が乙女回路の付いてる女子高生みたいなこと云ってんのはみっともないですよ、ウフフってよっぽど云って差し上げようかと思ったけど止めといた。
だってまだ仕事で会うし、一気に一分前にどうでもよくなった人間に親切に忠告してやるほど暇じゃないし。
帰り際一応今度のランチは何時にするって誘ってくれたけど、申し訳ないんですがこれから新しいプロジェクトが組まれるもので、その関係で定時に外に出られないかもしれないしそのメンバーとの付き合いもあるのでちょっとお約束できそうにないんです、と大人の云い方で断った。
むこうはその口上がさも新しい恋人の所為だと解っているよとでも云いたげな『俺って物分りが良いイイ男だぜ』って感じの自分に酔いまくりな顔してたけどね。
あーあーそうでちゅかーって笑顔で手を振っていつもの交差点でバイバイしました。
多分もうこれで何事もなかったかのようにというか実際何にもなかったんですけどまあとにかくお互い知らん顔の完全なビジネスライクなお付き合いに逆戻りだろう。
…………好みだったのに。
えーえー、そうよ、かーなーり好みだった。
ああもう本当に最低、背高いし顔はそこそこだけど全体の雰囲気は良くて、仕事は凄いできて人柄も良くて尊敬できて、稼ぎも良くて次男で学歴もあってああもう本当にもったいねぇよ!
むかむかする気分そのままの勢いで苦情が来そうなぐらいの騒音を立てる9センチのピンヒールであたしは一路我が家を目指す。
その競歩みたいなリズムに合わせてさっき駅前の吉野屋で買った牛丼特盛汁だくが二個入ったビニールがぶんぶん揺れて油っぽい匂いを周囲にばら撒いてあたしの今一番お気に入りのチャンスの香りを駆逐する。
は?
牛丼特盛二個なんて誰が喰べるのかって?
そんなのあたしに決まってんじゃないの。
別に自棄喰いなんかじゃないわよ、喰いたいから喰うに決まってんじゃない。
実は一昨日から喰いたかったのよねー。
ここんとこビジネスランチ続きで会社の経費でいいモン喰えるのはいいんだけど、そういうのばっかでも飽きてくるじゃない?ジャンクなもの口にしたくなるじゃない?
あー久々だわー吉牛ー。
ついつい二個買っちゃったけど、二個も喰べたら太るかしらねー。
まあいいんだけどーちょっとぐらい腹に肉付いても当分男と寝ることもなさそうだしー。
もうすぐ劇場版公開されるし、大捜査線のDVDでも見ながらたーべよーっと。
あー早くお家に着かないかしらー。
……つーかね、つーかそんなに後悔するぐらいならあそこで『やっだー違いますよー自分で買ったんですよー』とか可愛く云っちゃえば良かったのにって思うんですけどね、なんかあの瞬間はあの短絡的思考がムカツイちゃって。男のくせに女々しいこと云ってんじゃねぇよ、とかセクハラ防止委員会に睨まれそうな侮蔑しちゃったり、こんなせせこましい男もういらねぇよ、とか次のターゲットを脳内アドレス帳から検索するのに忙しくて。
でもね。
あたしにしてみれば新しい指輪なんてたいして意味の無いものだったんだけど、どこの指にしたってそんなの気分の問題で全然そんな『薬指に新しい指輪=恋人』なんて馬鹿らしい暗号全く気にしてなかったんだけど、後輩のマユちゃんにぽろっと話したら意外とみんなそういうの見てるみたいで、逆に気にしないあたしに本気で驚かれてあたしの方が変な人って感じに普通は薬指に新しい指輪なんかしてたらそう思うし、挙句トドメに私も朝先輩の指見てそう思いましたーとか云われちゃって。
要するに。
認識が甘かったのはあたしの方で、別にあの人が三十路の分際で乙女回路を内蔵していた寒い男だったわけではなかったと理解するに到りそれはもう逃がした魚のでかさに胃がキリキリ痛むわけでして。
あああああ最悪。
後悔という海に沈むあたしを誰か助けてドラえもん。
また溜息を吐いて肩にかけていたバックからカギを取り出したそのときだった。
エントランスを通ってマンションに入ろうとしたあたしのすぐ横の植え込み、そこから人の呻き声が聴こえた。
あたしは脚を止めた。
「………う…ぅ」
やっぱり気の所為じゃない。
あたしは特盛牛丼を利腕から左手に持ち替えた。
変質者だったら機嫌も悪いことだし容赦なくぶん殴る気満々で拳を固める。
むしろそっちの方がストレス発散できていいかもとか鬼のようなことを考えつつ、周囲に気を配りながら音を立てないようヒールの踵を上げて爪先立ちに移動する。
そっと植え込みを覗き込むと遠い街灯の光でも黄色と青が確認できた。
金髪に青い学生服。
道路から隠れるようにマンションに向き合う形で、そいつは木に凭れるようにして蹲っていた。
上げていた踵を下げてあたしはさっきとは種類の違う溜息を吐く。
ここって昼間だとけっこう日当たりがいいのよね。
大方、サボりの高校生がこっそり昼寝してそのまま夕方になっちゃっいました、って線だろう。
あたしはヒールが土にめり込まないよう気をつけながら植え込みの中に入った。
「ちょっと、君、もう夕方だよ、起きなさい」
声をかけるとまた小さく呻く。
まーだ寝ぼけてやがんのかクソガキ、と思って肩を揺すろうとさらに近付いたらいきなりその身体が傾いだ。
タイトスカートの膝下にしがみつかれて慌てて高校生が寄りかかっていた木に手をつく。
「…ちょ…っ」
情け容赦なく蹴りとばそうとして、また苦しげに呻いたから咄嗟に停止する。
ひょっとして病人?といぶかしむあたしの耳に力の無い声が届いた。
「そ…その牛丼特盛汁だくをどうかボクに恵んでください女王様……」
「誰が女王様だクソガキ」
あたしは金髪のクソガキ――城之内克也の顎を今度こそ非情にも膝で蹴り上げた。
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