「先生…なにこれ」
 零れたのは酷く渇いた声で、私は自分のその声音にぼんやりと驚いた。
 私が両手で握り締めているものをちらりと一瞥したものの、助教授は関心なさげにあと少しできりがいいところだという手元の洋書にあっさりと視線を戻す。そして微塵も感情を揺らした素振りもなく、私とは正反対のまるきり平淡な口調でシンプルな返答を紡いだ。
「暑中見舞い」
「嘘だよ」
 私は激しく頭を振った。
 久々に助教授に会えるのだからと綺麗に整えた髪が台無しだと頭の片隅で思う。でも、もうとっくに台無しになったものがある。
「だって書いてあるじゃん、云えなかったけど、ずっと好きでしたって」
 たった一枚の葉書の所為で弾んでいた気持ちはすっかりぺしゃんこに潰れてしまった。
「暑中見舞いなんかじゃないよ、ラブレターじゃん、先生何云ってるの?」
 馬鹿みたいだ。
 何故私は必死になって自分を痛めつけるような台詞を喚いているのだろう。先生は黙ったままで、私が口を噤むと狙ったみたいなタイミングでぱらりとページを繰る音が部屋に響いた。
 胸が熱くて痛い。ひょっとして泣き出す前兆かもしれないと、息を吸い込んで熱を散らそうと試みる。先生も忙しかったし私も〆切を抱えていたし、顔を合わせたのは三週間振りなのにどうして来た早々こんな嫌な気分にならなくちゃならないんだろう。
 先生だって大きな声を出されて不愉快に感じたかもしれない、そう思いつくともう顔を上げていられなくて私は項垂れて絵葉書へと視線を落とした。
 青く澄んだ海に唇を噛む。
 その写真もちょっと癖の残る繊細な文字も若い女の子を連想させる。
 結局、私は聴講生にはならなかった。だから先生が教壇に立っている姿を見たのは後にも先にもあれ一度きりだけど、あの時私だって思ったではないか、格好いいと、前列の綺麗に着飾った女の子たちはきっと火村助教授のファンなのだろうなと。
 あの中の女の子に到底憧れではすまない本気の恋心を助教授に捧げている子がいたって不思議じゃない。もしかしたら先生は面と向かって告白された経験だってあるかもしれないし、この手の手紙だってこれが初めてという訳ではないのかも知れない。そのことに今更ながら私は気付いてしまった。
 ぱたんというハードカバーの本が閉ざされる音。助教授の立ち上がる気配。
 畳に向けられた視界の中に助教授の裸足の爪先が現れた。棘のように胸を刺していた物体を私の指から助教授がそっと取り除く。
「悪かったよ。お前がくるのに、安易に放置しといた俺の責任だ」
 それを云うなら落ちていたからと拾い上げ勝手に読んでしまった私の責任ではないか。まさに好奇心猫を殺すだ、他にも何枚か落ちていたのに、あまりにも海の青さが際立ってたから私はつい手にとってしまったのだ。
「一応返事は出すが、毎年恒例の決まりきった定型文しか書かない。俺の講義は取っていたようだが、彼女はゼミの学生でもないし、俺は顔も思い出せないくらいだ。お前が気に病むようなことは過去にも生じていなければこの先の未来にも起こることはない」
 先生が俯いたままの私の髪を宥めるみたいに撫で始めた。
 そんなふうに優しくしないで欲しい。余計に自分勝手で醜い私が浮き彫りになってしまうから。
 自分が何に対してここまで動揺しているのか解ってしまった。
 私は私以外の誰かが火村先生に思いを寄せていたことが嫌なのだろう。しかもその誰かというのが私なんかよりもよっぽど先生の横に並んでいても違和感のない、すらりとした綺麗な女の子たちだということが余計に私を怯ませる。私はその誰かに先生を奪われてしまうかもしれないことが恐くて仕方ないのだ。
、解ったなら返事してくれ」
 いつの間にか髪から頬へと移っていた手のひらに自分の手を重ねる。顔を上げたくなかったから、そうすることでおそらく先生が次にしようとしている行動を封じたかったのだ。
「…ん、わかった」
 辛うじて動かせる親指が探るように緩慢に私の頬の上を辿る。先生のことだから下を向いたままの私が泣いているんじゃないかと、視認の代わりにきっとそうやって涙の有無を確かめているのだろう。
 火村先生が好きだ。
 先生が優しいからじゃなく、私は先生が先生だから好き。離れたくない。
 なのに、頬を包んでいた熱が静かに離れ行こうとするから、縋るように私は先生の指先を追いかけて僅かでも接触を求める。
 腕を下ろしたところで先生の指はあっさりと私の手のひらに捕まった。先生はほどこうとも逃げようともしない。そうしたかったはずなのに、いざ叶ってみると少しも嬉しくなくてむしろ哀しさが募った気がした。
「ウリたちにメシをやってくるから、ここであとちょっと待っててくれるか。すぐに済むから」
「いいよ、やっぱ止めよう、出かけるの」
 自分から繋いだくせに自分から指を解いて、私は先生の身体に抱きつく。体当たりみたいで色気がなくて無様だなと思った。多分、普通の女の子ならもっとちゃんと可愛く甘えられるのだろう。上手く出来ないことに劣等感が滲んで、それから目を逸らすみたいに私は目を瞑る。
「先生、疲れてるでしょ、いいよ、今日はお家にいよう」
 背中に回した手でシャツを握り込んで、出来るだけ強く先生にしがみついてみたけど、全然傍にいる実感が湧いてこない。
「疲れてない。急にどうしたんだよ、あれだけしつこく云ってたくせに。行きたかったんだろ、水族館」
「うん、ごめんね、でももういいから気にしないで。先生は大して興味なかったでしょ、だからいいよ、無理しなくて」
 最後の言葉に髪を梳いてくれていた手が止まる。
 先生は肩を掴んで私の身体を引き離した。やっぱりくっついていたけどちっともくっついてなかったんだ、こんなに容易く離れてしまうんだから。
 何だか酷く空虚な気分で先生を見上げると、怒ったような顔をしていた。
「何を妙な遠慮をしてやがる。さっきの件なら俺ははっきり云ったはずだぜ、俺の人生とあの絵葉書の主の人生が今後一切重なることはないって。お前だって解ったって云ったじゃねえか」
「うん、ちゃんと解ってるよ」
 私はカーディガンを肩から落とすように脱いだ。キャミソール型のワンピース一枚になった私に先生の目の色がますます剣呑になる。
「何で上着脱いでんだよ」
「え? 別に、暑いから」
 答える声が震えた。
 嘘だっていうのが明らかでも別にそんなのどうでもいい。私はもう一度先生に手を伸ばし、なのに今度は拒まれた。
 掴まれた両手首は私の自由を奪っているのに、それでもやっぱり痛くはなくて、こんな時でもちゃんと手加減してくれている先生は残酷なくらいに優しいと思う。
 注がれる視線を感じたけれど、目を合わせられなくて私は捕らわれた手首の方を見詰める。「」と呼びかける声は苦味を帯びていた。
「俺のご機嫌をとって身体を使ってでも繋ぎ止めなきゃとでも考えたか? 云っとくがセックスなんて愛情がなくてもやれるんだから、身体を使って繋げられるのは所詮身体だけだ。そんな真似をしなくちゃならない時点で既に対等な恋愛関係とは呼べない」
 容易く意図を看過されて私は赤面し、同時に愚かな短絡思考に走った自分が恥ずかしくなる。みっともなくて居た堪れなくて、先生の前に立っているのも辛くなってきた。
「も…いい…帰る」
 放して、と云ったのに先生は放してくれなかった。
、落ち着けよ。俺は別にお前を責めてる訳じゃない」
「いい、大丈夫、解ったから、もう解ったから」
「全然解ってねえだろうが。おい、
 折れそうなぐらい強く手首を握り込まれて、怖くなって私は抵抗を止める。
 ゆっくりと拘束を解くと、先生は膝を曲げて私と目線を合わせた。
「俺はあの時ちゃんとお前に云ったはずだ。俺はお前のこと全部引き受ける覚悟があるって。お前の過去も容姿もそのコンプレックスも全部ひっくるめて、俺はお前がいいって云ったんだ。お前はそれをもう忘れた訳か?」
 唇を噛んで首を振る。
 忘れるわけがない。一語一句、雨の色まで絶対一生覚えている。
「忘れてない…忘れてなんかないよ…」
 首を振り続ける私に先生は「そうか」と少し笑ってみせた。膝を戻すと私の背に腕を回して部屋の方へと誘導する。
「気になることがあるならちゃんと俺に話せ。あの葉書の何がそんなに気になるんだ?」
 私を座布団の上に座らせると、自分はいつもの定位置の文机の前に腰を下ろす。やっぱり顔を見れなくて、私は膝の上で重ねた自分の手へと視線を逃がした。
「は、葉書っていうか……私以外にも先生を好きな人がいることに、今頃改めて気が付いちゃって……先生を疑うとかじゃないんだけど、先生を好きな人がいて、しかもその人は私より全然先生と似合いそうな人で、その人がいつか先生に告白したら、先生が心を動かされる可能性があるんだ、って考えたら……恐くなっちゃったっていうか…」
「動かない、可能性はゼロだ。従ってお前が不安を感じる必要はない」
 殊更ばっさり切り捨てると、先生が私の右手を取った。
 労わるように大きな手のひらが手首を包む。私の肌が異常に白い所為で、もうはっきりと両手首に手枷のような赤い痕が浮いていた。
「痛むか? 悪かったな」
 私はまた首を振る。見た目が鮮やかなだけで本当に痛みはない。
 それよりも先生がゼロだといった可能性について私は頭を巡らせていた。
 先生は私の為にそう口にしたのだろう。でも本当はゼロに近付くことは出来てもゼロになる日は来ない。人間の感情は恒常ではなく絶えず変化するが、影響を与える変数の全てをコントロールするには人の能力はあまりにも限定されている。先生が私に愛情を感じ続ける限り心変わりする可能性はそれだけ縮減されはするが、現時点の愛情が将来にわたっても一定に保たれていく保証なんてどこにもない。
 でも、逆に云えば心変わりする可能性と同時に先生がずっと私の傍にいてくれる可能性も複数存在するとも考えられる。それに、何よりもこの先愛想をつかされる原因を他の女の子という外部要因に求めるより、一人相撲で勝手に恐慌をきたした挙句に迷惑をかけている私のこの性格にあるとした方が妥当な気もしてきた。
 冷静に考えれば考えるほど、自分のしたことは愚かな振る舞いだったと後悔が湧きあがってくる。
 自然と溜息が零れた。
「…先生、ごめんね。私、面倒臭い奴で本当にごめんね」
 しょんぼりしてそう云うと咽喉を鳴らすような掠れた笑い声がした。
「面倒だなんて思ってない。この程度は想定内だ」
 やわらかいその声につられたように漸く顔をあげると予想通りの先生の表情があって、酷く幸福な気配が押し寄せてきて瞳が潤むような気がした。
 先生は私のように声を上げて笑うことは滅多にない。代わりに鷹揚に微笑む時がある。その顔が好きだ。普段は闇を宿したような無機的な瞳が穏やかな夜みたいな優しい色になるから。
 さっきと違って下心は一切なしに私は親愛の情を込めて先生の胸に腕を回す。
「先生、ありがとう。さっきあのまま帰ってたら、絶対一人でぐるぐるして、変なこといっぱい考えて凄く憂鬱になっていたと思う。ええと…私、超うざいのに放り投げないでちゃんと話聴いてくれて、その…嬉しかった、です…」
 先生がまた少し笑い、 大したことないとでも云うようにぽんぽんと背中を叩く。
 抱きついた身体が僅かに身動ぎして、次いでかさとすっかり耳慣れてしまった音がした。
 三秒後には紫煙が漂い始める。今日おろしたばかりのワンピースににおいがついてしまうと思ったが、別にいいやと私は目蓋を閉ざしてその胸に凭れた。キャメルのにおいにもすっかり慣らされてしまって、もう顔を顰めるようなこともない。
 しばらくそうしていて、すっかり気の緩んでいた私は危うく悲鳴をあげるとこだった。
 いつの間に髪の下に潜ったのか、さらさらと毛先を玩んでいたはずの先生の指が半分ほど露出している背中の皮膚をなぞっている。
 離れるべきかどうするか、内心冷や汗をかいていると先生が意地悪げに囁いた。
「ところで、ちょっと前までは肩を抱かれるのさえ嫌がるふうだったのに、最近すっかり抱きつき癖がついてやしないか?」