世の中には変わった名前の子がいるものだ。
 小説で使えそうだなとかセコいことを考えつつ、集計ミスがないかぱらぱらと名簿を繰って確認してみる。
 出席点はこれでよし、先生が既に済ませていた試験の採点結果も書き写したし、あとは先生が今見ているレポートの点数をプラスすればそれで終わりだ。
「先生、こっち終わったよ」
 声をかけると助教授が多少くたびれた表情で振り返った。
 「面倒なことを頼んで悪いな。お前が手伝ってくれて本当に助かったよ」と素直に感謝の念を述べ、本当にうんざりしているように微かに息を吐く。
 一昨日までとある事件に首を突っ込んでいたので疲れている上、三週間後には内部でのいざこざの皺寄せを受けて急遽枚数を増加された学会誌の締め切りを抱えていたら、前期のみの集中講義の評価なんてものは確かにうんざりするくらい面倒なことなのかもしれない。
 まあ、フィールドワークと称する犯罪現場の調査に出かけることで生じた休講を補う為に提出させたレポートの採点で通常よりも仕事が増えているが故にうんざりするぐらい面倒な事態になっていることは果てしなく自業自得に違いないのだが。
 けれど、賢明な私はそれには触れず、自分のと先生のぶんのカップを掴むとコーヒーを淹れに立ち上がる。
 私の姿が見えなくなった所為か、背後から物凄く盛大な嘆息が聞こえてきた。ボールペンか何かでぱしんぱしんと紙を叩いているような音も。
 子どもみたいに嫌々仕事をしている火村英生助教授に危うく私は噴出しそうになる。駄目だ、可哀想だけどこれはちょっと面白い。
 必死で笑いの衝動を押し殺してから、私は隣の部屋に戻った。
 その身に煙草の煙を纏わりつかせながら、先生は今度はライターをかちかちやっている。そのいかにもフラストレーション溜まってますって背中はやっぱり何だか可笑しくて、私は緩みそうになる口元を引き締めた。
 おそらくさっさと論文の方に取り掛かりたいのだろう。予定外のことを押し付けられたことにも腹が立っているし、どうやってその皺寄せ分を埋めるか早急に対策を講じなければならないことへの焦りもあるのだろう。だがしかし、レポートの採点を適当にするなんてことは出来ないのだ。もし先生が自身の都合を優先させて不真面目にやった結果、実は単位が貰えた学生が落とされて、ひょっとするとその単位が足りなかった所為で留年する可能性だってあるのだから手を抜くことは許されない。
 つまり、先生は今いい加減にやりたいのにいい加減にやってはいけないという相反する本音と建前で板ばさみなのだ。ああどうしよう、そんなある意味可愛いらしい理由で苦悩する英都大学社会学部助教授火村英生はやっぱり可笑しい。先生は机に向かっていてこっちなんて見てないからいいけど、本格的に口の端が震えてきそうだ。
 私は息を吸って無理矢理横隔膜を鎮めた。
 だめだめ、可哀想なことは可哀想なんだからと自分に云い聞かせる。後日のレポート=仕事の増加を覚悟の上で休講にしたのだろうが、さすがに事件と論文によってその増加分の処理がこうも負担になるとは予想だにしてなかったろうし、まったくもって不運が重なったとしか云い様がない。
 それでも単なる出欠の合計や点数の複写ならまだしも、専門知識に基づいた判断を要するレポートの評価なんてものは私じゃ手伝うことは不可能なんだから、とにかく一人で頑張るしかないだろう。こうしてコーヒーを差し出すぐらいが関の山、あとはせいぜい灰皿の吸殻を捨ててあげるくらいしか私は役に立てそうにない。
 膝をついて文机から灰皿を取り上げ、私はふと吸殻を見下ろす。すぐ傍からは紫煙の香り。すっかり慣れてしまったその匂いに、なんだか急にむくむくと興味が湧いてきた。
「ねえ、先生、私も煙草吸ってみたい」
「駄目だ」
 私の提案は即座に却下された。
 本気で吸いたいのならとっくに隠れて吸ってるし、ちょっとした好奇心なだけだったのに、こうもすっぱり禁止されると却って余計に吸ってみたくなるのが人情ではないか。
 手にしていた灰皿を畳に置くと、私は手を突いて先生の方へと身を乗り出す。
「どうして」
「お前に悪いことを教えたら俺がに怒られる」
 まあ確かに兄は私より火村先生の方を怒りそうではあるが。
 先生の指に在る煙草に手を伸ばしてみたがひょいっと避けられた。
「秘密にするよ。云わなければ解らないって」
「健康にも良くない。今まで吸いたいとも思わなかったんだから今更口にする必要性はないだろ、止めておけ」
「健康を持ち出すなら私の前で吸わないでよ、副流煙の方が健康被害って酷いんでしょ。けちけち先生、もう手伝ってあげないんだから」
 先生は煙じゃなくて溜息を吐くと、レポートから顔を上げてこっちを見た。
 副流煙への後ろめたさと貴重な労働力の喪失のどちらに先生がより心動かされたのか解らないが、勝利の気配に私はつい笑顔を浮かべてしまう。火の点いた煙草が先生の指に乗って移動してくる。私は満面の笑みでそれに手を伸ばす。
 しかし、それは私の指を素通りして、火村先生の指に挟まれたまま私の口へと運ばれてきた。
 先生の少し硬い指の腹が私の唇に触れている。
 フィルターはちゃんと唇の間に収まっているので、自分じゃなくて先生が煙草を支えている点を除けばいたってごく普通の喫煙スタイルのはずなのだが、私は次の行動を躊躇った。
 よくよく考えてみれば、煙草を吸いたいなんて本当に思いつきの産物なので、私はこうして咥えた後で具体的にどうすればいいのか知らなかったのだ。
 先生は特に面白がるふうもなく、黙って私に目を止めている。
 駄々をこねた上、いつまでも先生にこの体勢取らせているのもなあと、私はとにかく息を吸い込んで
「…ぅ…っ…げほ…っ!」
 お約束どおり噎せた。
「だから止めとけっていったのに」
 云わんこっちゃないと小言のひとつも口にするかと思ったが、先生は私の予想よりも優しさを持ち合わせていたようだ。畳に突っ伏すようにして咳き込む私の背をさすってくれている。
「だって…煙草の味は苦かったとかいう、でしょ……そういえば、本当かなって」
「検証したくなったのか。で、苦かったか?」
 私は顔を上げる。先生は制止してくれてたし、悪くなんてないのについつい恨めしげな目を向けてしまう。
「苦いというより苦しかった」
 正直に告げると薄く隈の浮いた目を呆れたように僅かに細める。そして私を咳き込ませた煙草に平然と口をつけ、慣れた仕草で紫煙を吐き出す。
 嫌味かコノヤロウと板に付いたその振舞いを涙の溜まった目でじっとりと眺めていると、おもむろに先生は私の顎を掴んだ。
 唇同士は触れてなかった、と思う。
 ただ唇の間にするりとやわらかくぬめったものが侵入してきただけで。
 睫毛が届くほど間近にあった先生の顔が離れて、置き土産のように舌の上に独特の苦味が滲む。
 唖然としている私に灰皿で揉み消した煙草を咥えさせると、何事もなかったかのように再びレポートに取り掛かり始める。
 新しい煙草に火を点しながら、先生は云った。
には内緒だぞ」