ドアの右上に掲げられた火村の文字。
 なんとなくその表札に目を奪われたまま鉄の扉をノックする。打てば響くように中から「どうぞ」の声がして、おまけに私がノブに手を触れるよりも先にドアが開く。
「まあ、凄い。今時の大学ってこんな場所まで自動ドアなんだ」
 大げさに胸の前で指を組んでみせると「くだらねえこと云ってないでさっさと入れ」と薄い冊子でぺしんと頭をはたかれた。わざわざ手動でドアを開けてくれたのは、どうやら紀要と思しきその冊子を取りに入り口そばの本棚の前にいた所為だと察せられる。
 私ははーいと返事をして、ドアを押さえる火村先生の胸の前を横切ろうとして奇声を発した。
「あ」
 何かを踏んづけた足首がぐにゃりとして視界がぐらりと傾いてスチール製の本棚に額をごちんと打ち付ける。
「おい、大丈夫か」
 背後でばたーんと重い扉の閉まる音。火村先生は冊子をテーブルに放り投げると私の腕を掴んだ。
「ごめん、先生。なんか踏んづけちゃったみたいなんだけど」
「馬鹿、そんなことはいいから見せてみろ」
 棒っきれでも振り回すみたいな容易さで私の身体を相対させると、片手で顎を捉えてもう一方で額に垂れた髪を掬った。
「平気だよ、これくらい」
 恥ずかしい話だが私は結構頻繁に転倒する。今のようによろけておでこを打つこともそう珍しくはなく、経験上、今の程度じゃ別に酷い怪我なんてしていないことが解ってしまう。
 しかし、平気だと云っているのに、火村先生の耳には届いていないようだ。親指で額の一部に慎重に触れてくる。
「こぶになるほどではないようだな」
「だから平気だってば」
 先生の手首を掴んで放せとアピールしてみると漸くそれで解放された。
 自分でも可愛くないとは思ったが、心配されたり優しくされることが苦手なんだから仕方ない。
 ちょっとよろけてぶつかったぐらいでいちいち気にしてもらえるほど上等な人間ではないのだから、無視されるぐらいの方がある意味気が楽なのだ。加えて助教授が相手となるとなおさら厄介だったりする。構われるのが苦手だからという理由だけではなく、触られると嬉しいやら気恥ずかしいやらで平常心を保てなくなりそうで恐ろしい。
 ちょっと頬に触れられたぐらいで赤面してなきゃいいのだが。前髪を直す振りをしながらさり気なく顔を隠すようにしていると、冷蔵庫に向かっていった先生が思わぬものを取り出した。
「え? 先生ここでそんなの食べてるの?」
 そんなものとはガリガリくんだ。
 一瞬、アイス片手に仕事をしている助教授の幻覚が脳裏に浮かんで笑いそうになる。
「学生がくれたんだ、確か去年の夏休み前に。ところでいつまでそんなところに突っ立ってるつもりだ? こっちに来いよ」
 ついた霜をゴミ箱の上で払い落とすと、助教授はハンカチでガリガリくんを包む。
 ちょこちょこと近付くと、やはりというかガリガリくんを私の額にくっつける。痛みによく似た冷たさについ眉間に皺が寄ってしまう。
「いいよ、先生。融けちゃうよ」
「融けたらまた冷凍庫に放り込んどけばいい。運がよければそのうち誰かが見つけて喰うだろう」
 要するに先生は食べる気がないのだな。ガリガリくんには申し訳ないが、これ以上固辞して好意を無下に出来るほど私は火村先生に無関心ではない。
 礼を云うと先生はどういたしましてと肩を竦めて煙草の箱に手を伸ばす。
 そういえばと、アイスを頭にくっつけた間抜けな姿で私はドアを振り返った。ドアの前にはゴム製の小さな三角形の物体が床に落ちている。私が踏んづけたのはあれなのだろう。
「先生、さっき私が踏んだあれって何?」
「あれは単なるドアストッパーだ」
「ふぅん。煙が溜まったら換気でもするの?」
「違う。女子学生が一人でここを尋ねてきたとき、セクハラ防止として閉め切らずにそれを使ってドアを開けておくんだ」
「えっ!?」
 アイスが落ちそうになった。
 煙を吐きながら火村先生が私の脳ミソを盗視したかのように非常に嫌そうに目を眇める。
「おい、。断っておくが、俺が学内の人間にその手の真似をしそうな下劣な人間だと疑われている訳でも、理性が薄弱な為にそうすることで自らを戒めている訳でもないぞ。
 セクハラは当人の主観や認知に大きく左右される問題だ。こっちにそのつもりがなくとも向こうにとっちゃ許しがたいセクシャルハラスメントと受け取られる場合もある。先生というだけで良く知りもしない男と狭い部屋に閉じ込められることに精神的圧迫感を覚える生徒もいるかもしれないし、お互いに不幸を生じさせるような要素は可能な限り排除したいだけだ。
 それに例えば評価が気に入らなかった女子学生が奸計を企て、密室の中で二人きりになった途端にいきなり泣き叫びだし、駆けつけた人間に俺に襲われそうになったと証言したりしたらどうする? 最近じゃセクハラにならないよう自らの言動に注意するだけじゃなく、そんなふうに虚偽のセクハラ被害による攻撃に関する警戒まで要求されるようになった。
 ただでさえ教授会や教務課に嫌味を云われて神経磨り減らしてるっていうのに、そんなことまで気を配らなきゃならないんだからまったく堪ったもんじゃない。繊細な俺が登校拒否になる日も近いと思わないか?」
 嫌味を云われても突然の休講を止める気配が微塵も感じられない繊細な火村先生が将来登校拒否になる可能性はさておき、セクハラなんてハゲ親父と若いOLの間の問題かと思っていたら、近年じゃ大学内にまで飛び火しているのか。
 でも、火村助教授の場合、陥れることが目的というよりも嘘でも何でも既成事実を捏造したくて仕方ない女性徒という危険性の方が高い気がしたがそれは黙っておく。
「先生もいろいろ大変なのね。あ、じゃあ今も開けておいた方がいいの?」
「別に今は必要ないだろ。お前さんが俺を失職させようと泣きながら弾丸のように飛び出していく気があるならともかく」
 ないよ、そんなの。
 軽く睨んでみたが、助教授はどこ吹く風で紫煙を吐き出す。ちょっとばかり意地悪がしたくなった私は、せいぜい悪ぶって薄っすらと笑ってみせた。
「今ならちょうどおでこは赤くなってるし、先生に襲われましたって訴えたら説得力がありそうだよね」
 冗談のつもりだったのに、ふと先生が顔をあげる。妙に真面目腐った表情で私の右肩に目を止めたからどきりとした。
 そこには未だ赤く鬱血した痕が残っているはずだ。
「事実手を出しているんだから、告発されても俺には弁解の余地がない」
 台詞の方は直裁的ではなかったが、助教授の視線は彼が私に何をしたのかを思い出させるのに十分威力を発揮した。
 出来ることなら止めてくれと真顔で告げられ、なす術もなく私は頷く。
 今度こそ隠しようがないくらい頬を朱に染めながら、云うんじゃなかったと私は激しい後悔に苛まれていた。