「先生、コーヒー」
 口にした後に我ながら何てことだと顔を顰める。
 その小学生みたいな単調な単語の羅列はなんなのだ、
 それでは推理小説家という肩書きが泣くというものだ。
 今の失言を純文学風だのエラリー・クィーン風だのに改竄するという、一円にもならないことに限りある脳細胞を惜しみなく投入しながら私は先生にカップを差し出した。
「ああ」
 論文の締め切りに追われている犯罪社会学者の先生はこっちも見ずに生返事だけでカップを受け取る。私は心が広いので、今更見るからに偏屈そうな先生さまが人の好意に対してお礼の一言もないぐらいで腹を立てたりしない。使命を果たした私は曲げていた膝を伸ばして足元に気をつけながら一歩下がる。
 ちなみに今の受け渡し作業により正確な記述を試みるならば、先生の視線はお行儀悪く立てた膝とは反対の膝に広げられた日本犯罪社会学会誌に終始注がれたままだった。それなのに先生が中身を零しもせずにカップを受け取れたのは、上の空で差し出された手にしっかり収まるよう、私の方がそれはそれは気をつけてあげたからなのだ。本当に私は心が広い。
 何故ならもし今コーヒーなんぞを零したりしたら大変なことになるからだ。カップの受け渡し作業を行ったその真下には、先生の論文の為の大事な資料が山とあった。普段は無表情とか鉄面皮とかそういう表現の似合う先生でさえ、そんなところにコーヒーを零した日には顔色を変えて悲鳴を上げること間違いなしだろう。
 ……前言撤回、そんな面白すぎる先生が観られたかもしれないなら、わざと滑らせてやれば良かったかも、とちらりとでも脳裏に過ぎらせてしまった私の心は実は相当狭いらしい。
 散らかり放題の部屋でどうにかスペースを確保して腰を落ち着かせると、私は自分の分のコーヒーに口をつけながらこっそりと一メートル三十センチほど向こうの先生を盗み見た。
 推理小説家という、言葉と戯れる者の端くれとして一応私も先生と呼ばれないこともない。でもどうも先生なんていう呼称は気恥ずかしくて、そう呼ばれるのは好きじゃない。それは身分といい、実績といい、非の打ちようがなく先生と呼ぶに相応しい目の前の人を知っている所為かもしれない。
 火村英生。
 自らの出身校でもある英都大学・社会学部の助教授。専攻は犯罪社会学だが、法律、法医学、心理学にも造詣が深く、時には警察に協力して事件を解決に導く名探偵でもあるという、まさに異能の研究者。
 私は彼に『臨床犯罪学者』という称号を与えている。
 で、そんなハイ・スペックを誇る火村先生が現在何をしているのかというと、魔方陣のごとく、周囲をぐるりと紙、紙、紙の束に取り囲まれてしまっているのだった。
 コーヒーというよりは牛乳をたっぷり注いだカフェオレのカップに唇をつけたまま、することのない私は上目遣いに火村助教授の観察を続けてみる。
 今まで目を通していたものを左側に積み上げると、助教授は苛々した様子でまた新たに別の冊子を取り上げる。渡したカップによって左手は封じられているのだが、そのことすら気付いていないように器用にも右手だけでページを繰っていく。
 実はコーヒーを淹れに行く前からこの様子なのだが、どうやら論文に必要な文献がどうにもこうにも見つからないようなのだ。おかげで元から書棚から溢れた蔵書によって生活スペースが侵略されまくっていた部屋がさらに凄いことになっている。
 先生の横、積み上げられた本や雑誌に目をやると、あちこち無造作に折られてしまった所為で妙に厚みを増してしまっているものがある。その隣の大量のコピーの山にも折り曲げられたものがあるが、さすがにこちらはポストイットの方が目立つ。おまけに明らかに定規を使用しているとは思えない歪な蛍光色のラインが目を刺す。折るのもラインも、どちらにしたってどんな本でも愛着を持って丁寧に扱う私からすれば正気の沙汰とは思えない所業だ。
 火村先生がちっと忌々しげに舌打ちして次へと手を伸ばす。相変わらずカップに口をつける素振りはない。
 あんまり苛々してると若白髪が増えちゃうよ、と、つまらない与太を飛ばしかけて口を噤む。また空振りだったのか、最初の数ページに視線を走らせただけで助教授の横顔に剣呑な翳が宿ったからだ。切羽詰った状況でのこの時間のロスは気の毒だが、八つ当たりされるのはごめんである。
 ああ、そうそう。
 改めて自己紹介をすると、私は。しつこいようだが職業は推理作家。ペンネームは使ってない、潔く本名で書いている。
 そんな自由業の私がどうしてお堅い学者先生のお城でインスタントのカフェオレを啜っているのかというと……どこから話せばいいのやら。
 もともとこの火村先生は私の兄が大学で机を並べた朋友であり、その縁によって私はこうしてこの北白川の先生の下宿先にまで足を踏み入れるまでになった。……なったのだが、助教授との初対面のときのことは未だに根に持っている。残念ながら百五十センチ以下の私では百八十以上ある二人の顔面に平手打ちを喰らわすことも叶わなかったのだが、もしも私があと十五センチほど背が高かったのなら、両者に痛烈な往復ビンタをお見舞いしてやったところだ。まあ、あの時の経緯もいずれ機会があったら語るとしよう。
「…時絵お婆ちゃん、ずいぶん気が弱っちゃってるみたい。私が儚くなったら、悪いけれど娘夫婦に連絡をお願いするわね、とか云うんだもの。何云ってるの、まだまだそんなの先の先だよってはっぱかけたけど、諦めたみたいに微笑みながら云うんだもの、びっくりしちゃった」
 いい加減黙っているのにも飽きて、私は与太話ではなく、助教授の気を引けそうな話題を口にする。
 そもそも私が今日ここに来たのは、この火村先生の下宿先の大家さんである、篠宮時絵お婆ちゃんが体調を崩したからなのだった。七十歳を過ぎ、肺炎を患ってからはどうも風邪の治りが悪くなってしまったらしい。現在この下宿の店子は火村先生だけであり、また時絵お婆ちゃんの娘さんは結婚して今は離れて暮らしている。折りしも運の悪いことに、生まれは札幌だが家庭の事情で日本中を転々とし、だがこの京都北白川の下宿に移り住んでからはかれこれもう二十年近くお婆ちゃんにお世話になりっぱなしの火村先生には学会で発表する論文の締め切りが迫っていた。
 そこで現在締め切りも抱えておらず、時間を自由に使うことができ、火村先生と知り合ってからは度々お婆ちゃんにはお世話になっている私の元にエマージェンシーコールがかかってきた訳なのだ。
「婆ちゃんの熱は?」
 漸く助教授がこっちを向いた。
 ついでにやっとその手にあるカップの存在に気付いたようで、猫舌の助教授は同じく猫舌の私が平気で飲んでいるのをちらりと確認してから、とっくに湯気の消え失せたカップに口をつける。
「三十六度ちょい。お医者さんがくれたお薬飲んだらずいぶん良くなったみたい。でも関節が痛いって云うから持ってきたアンカいれてあげたら、ありがとうね、って云われちゃった」
 本当は『ありがとうね』の後に『早く火村さんと結婚して安心させて頂戴』などと云われてしまったのだが、恥ずかしいのでそれは省略だ。
「そうか。悪かったな、。いくら有り余る暇を持て余している作家様とはいえ、いきなり電話で呼びつけて病人の看病させちまって」
「いえ、時絵お婆ちゃんの看病は全然別にいいんです、いいんですけどね、なんだか一箇所物凄く腹の立つ表現が」
 助教授はさらりと私の抗議を黙殺して煙草の箱に右手を伸ばす。左手のカップを置こうとしたが、しかしその周囲はどこもかしこも大事な資料で埋まってしまっている。眉間に皺を寄せると助教授はカップを手放すことを三秒で諦めたようだ。
 ではどうするのかと黙って見ていたら、右手一本で煙草を口に咥えることから火を点けることまでやってのけてしまった。本当に器用なことだ。
 今度は灰皿を引き寄せながら、助教授は私の居る方とは反対の虚空に紫煙を吐き出す。ニコチンを吸引したおかげか、再び膝の上に視線を落とした横顔は先程よりも僅かに穏やかなものになっていた。
 時絵お婆ちゃんも床についたし、私より料理が上手い兄に託された八宝菜と山菜御飯も火村先生に食べさせたし、ここに居たって手伝えることもないし、そろそろ帰ろうかなぁと思いつつ、どうにもここまでまるっきり空気のように扱われると却ってそれすら云い難い。
 どうしようかなぁと、とりあえず甘いカフェオレを口に含んだところで何となく浮かんだ言葉が口を吐いて出た。
「先生はお墓持ってる?」
 咥え煙草の助教授が何云ってんだこいつは、と云いたげな顔を向けてくる。
 私は時絵お婆ちゃんの具合が悪いこの状況下で、今の質問は些か配慮を欠いた不適切な質問だったことに漸く気が付き、慌てて居住まいを正した。
「いや違うから、あの別にそういう意味じゃなくて、さっきお婆ちゃんがお墓はもう買ってあるからそういう心配しなくてすむから良かったわとか云うから、それでウチは持ってるけど先生はどうなのかなぁって思っただけで、別に私はお婆ちゃんの逝去を望んでいるのでは決してなく」
「落ち着けよ。お前が婆ちゃんを好いてるのぐらい俺だって解ってる。多弁になると余計に怪しいぜ」
 短くなった煙草を揉み消しながら助教授に諭されて、私はしゅんとなって口を噤む。
 ううう…どうせ私は見かけ通り迂闊で考え無しで落ち着きがありませんよ、期待を裏切らないお子様ぶりですいませんねぇ。
 先生はやはり不便を感じたのか、どうにか机の上に十センチ四方のスペースを確保するとそこにカップを置いた。でも、もしそのカップのすぐ右にある本の山が雪崩を起こしたりしたら、倒れたその中身がノートパソコンにもろに被りそうな位置なものだから非常に危険な気がする。本をどかすかカップをさげるかした方がいいんじゃないかなぁ、とか無意識に考えていた私に向かって助教授はさらりととんでもないことを口にした。
「まあ、どの道俺には墓は必要ないけどな。死んだら東大医学部に献体することになってるから」
「ええ!?」
 しゅんと項垂れてたのなんてどこへやら、私は思わず大きな声を上げてしまい、顔を顰めた助教授に唇の前に右手の人差し指を立てられてしまった。
 私はできる限り声を落として、けれど我慢できずに、爆弾発言をした助教授の方に両手を突いて身を乗り出す。
「せ、せんせい、献体って何? なんでそんなことになってるの?」
 私の狼狽ぶりには全く頓着せず、火村先生は少し離れたところに積んであるものを取る為に僅かに腰を浮かせた。
「若い頃に科捜研で検視の手伝いしていた教授が二年前ぐらいの前の学会に来てたんだ。その時の発表者のテーマが『巧妙化する殺害方法、その計画性と蓋然性』だかだったから、そのオブザーバー役だったかな。まあとにかくその教授がどっかから俺のことも小耳に挟んだらしく、学会が終わった後にわざわざ寄ってきたんだ。君は中々興味深い人物のようだから、死んだら解剖させてくれないか、って。医療事故防止の為にも解剖実習は…お! やった、やっとあったぜ、こんなところに隠れてやがったのかこの野郎」
 やっとお目当てのものを発見したらしい火村先生は、話の途中で急にうきうきとしたご様子になって、長らくスクリーンセーバーを表示させていたノートパソコンを引き寄せた。
 だが私の方はやっと実った発掘作業のその成果を祝う気には到底なれず、猛スピードでキーを叩き始めた助教授の背中を呆然と見詰めていた。
「……献体って…全部返ってこないの…?」
「普通は葬式やった後に向かうのは火葬場だけど、献体登録している場合はその行き先が大学になる。だが遺体の移送が済んだらすぐ解剖って訳じゃない。防腐処理等の解剖準備期間に三ヶ月から六ヶ月、実際の解剖学実習期間として通常三ヶ月から七ヶ月、その年予定されてた実習に間に合わなかった場合は翌年の実習まで保管されることになるし、供給過多になった場合も必要となるまで同様に保管されることになる。遺骨が返還されるのに普通は一、二年、長い場合は三年以上かな。
 だが、俺を切り刻みたがってたあの教授の口ぶりだと、正常解剖の献体数確保の為の勧誘って云うより、奇人変人のサンプルとして興味があるみたいだったから、死んだ途端に序列を無視して解剖レースのポールポジションに踊り出る可能性もあるな。
 質問に関してはイエスだ。俺には遺骨なんて必要ないから、解剖が済んだら火葬なんかせずホルマリン漬けでも骨格標本にでも好きにしてくれって云ってある。将来かの有名な漱石先生に俺が肩を並べることになるかもしれないぜ?」
 見つからないことによっぽどストレスを感じていたのか、手を休めることなくコンソールを連打する先生の舌は上機嫌で滑らかである。東大医学部の標本室には夏目漱石の脳が保管されている。助教授の話が本当なら、明治の文豪の横に一介の犯罪社会学者の脳が仲良く並ぶこともあるかもしれない。でも今の私はその冗談に解剖されたら肩なんかないじゃんと愛想笑いをすることすらできずに、とにかく見開いた目で今はまだそこに在る火村先生の背中を見詰めていた。
 しばらくそうしていたら作業が一段落したのか、それとも黙りこくった私を不審に思ったのか、助教授はくるりと振り向いた。そしておそらくはすっかり色をなくしているであろう私の顔を見て溜息を吐く。
「いいか、。諸説あるが、大雑把に云っちまえば心、肺、脳機能の不可逆的停止状態が死だ。肉体は必要条件だが、俺という存在を俺足らしめているのは俺の精神の方だろ。だがその精神活動だって、医学的見地からすれば脳の神経細胞の電気的な信号の流れと、網の目状につながった細胞と細胞の間の化学的な情報の流れのミックスしたものの集合だってことが昨今解明されてきた。つまり心の生物学的な基盤は脳であり、その高次脳機能が心的過程を実現できなくなった瞬間、俺という概念は消滅しちまうんじゃないのか? だとしたら肉体はそこに在ったとしても、それは俺という個人を他人が識別する為に機能してきた表面的な記号でしかなくなっていて、そこに在るのは最早俺じゃないはずだ。個人の宗教観にも関与する問題だからこれは完全に俺の意見だが、廃棄する前にその物体にまだ利用価値があるなら利用するのが合理的ってもんだろ?」
「解ってるよ、そんなの」
 ついつい刺々しい口調で反駁してしまう。
 そう、今更死の定義など講釈されなくとも、そんなの解ってる。火村先生の云うとおり、人の感情が脳内の電気信号なのだって知ってる。
 でも、今私の心を占領しているのはそんな単純に電気信号で説明できるようなものではない。ぐるぐると渦を巻いて平常心や理性を悉く薙ぎ倒していく、この真っ黒い感情をどう表せばいいのだろう。先生が解剖されるのが嫌なのか、先生の遺体が返ってこないのが嫌なのか、そんなことを一人で決めてしまった先生が嫌なのか、それともまるで当然のような顔で先生の人生に干渉しようとする私自身が嫌なのか自分でも上手く説明できない。
 唇を噛み締めて俯いた私に、火村先生はさっきよりは短い溜息を吐き出した。
 そして周囲を取り囲む紙の束にざっと視線を走らせ、その紙の山からミスコピーと思しき印刷の曲がったものを一枚見つけると、何の躊躇もなくその裏にさらさらとペンを走らせ始める。
 その間、私は恥ずかしいことに意志とは無関係に浮いてきた涙を散らすために懸命に瞬きを繰り返していた。
 やがてペンを置いた助教授は今度は机の引き出しを漁りだし、淡いパステルグリーンの長型4号の封筒を取り出すと、たった今書いたばかりのものを入れてスティック糊で封をする。
 そしてその封筒をどうするのかと思ったら、紙飛行機を飛ばすみたいに狙いを定めて、山積みの資料の向こうからすうっと投げてよこしたのだった。
「……何、これ?」
 私の揃えた両膝の前にぴたりと着陸した封筒には少し右上がり気味に私の名前が記されており、その下のところには『英都大学 社会学部』等の印刷がなされていた。でもこの『社会学部 創設70周年記念』って……これ三年前のことじゃん。普通に使うことのできなくなった封筒に失敗したコピー用紙の便箋という、この投げやりに作成されたラヴレターを一体私にどうしろというのだ?
 切ない気持ちが逆流して猛烈に腹が立ってくる。いっそ半分ほど残っているカフェオレをあの大事な資料の山にぶちまけてやろうかなどと、極悪なことが頭を過ぎる。
「俺が死んだら開けてみろ」
 意地になったみたいに手も触れず、ただ自分の名前のところを睨みつけていた私は文字通り弾かれたように顔を上げた。
 助教授は僅かに伏し目がちになりながら、咥えた煙草に火を点したところだった。今の台詞は空耳だったのかと疑いたくなるほど、溜息のように煙を吐き出すその顔はどこまでも平然としている。私は助教授の言葉の意味を量りかねて、助教授と手紙に視線を二往復ほどさせてから、漸く恐る恐る手紙へと指を伸ばした。封筒の上から触れてみても、それは先程目にした通りに何の変哲もない紙が一枚だけしか入っていないであろう、非常に薄っぺらな感触しか感じられない。
 こんないい加減な体裁では法的効力なんてないんじゃないかと思いつつ、死んだら読めなんて文章、私にはひとつしか思い浮かばなかった。
「…遺書?」
「少し違う。ある意味遺書だが、むしろ遺骨の代わりかな。学術的好奇心という名の出歯亀によって俺の亡骸はお偉い先生方の玩具になってるかもしれねぇが、安心しろ」
 そう云って。
 右手に挟んだキャメルで封筒を指し示し、助教授はにやりと笑ったのだった。
「俺は死後、そこに還るから」


 私はまた電気信号などでは到底説明できない感情に身体中の神経を蹂躙されて、呆然と火村先生を見詰めていた。
「…なんて書いたの?」
「それを今云ったらつまらねぇだろうが」
「すっっっっごく、今開けたいんですけど」
「俺が生きてるうちに開けたら大変なことになるぜ。鬼が出てきて気も狂わんばかり、だ。命が惜しけりゃ止めとくこった」
 助教授は笑いながら天井に向かって煙と一緒に戯言を吐きだす。最後にもう一度煙を深く吸い込んでからキャメルを揉み消し、用は済んだとばかりに先生は再び私に背を向けてしまう。
 私はいつのまにか捧げ持つようにしていた封筒にゆっくりと視線を落とした。
 この手紙を構成している便箋も封筒もただ同然で殆ど価値はない。だが、そこに書き記されたものによって何千倍もの付加価値の発生したこの手紙を、私は生涯何百万積まれても手放しはしないだろう。
「…うん、解った。楽しみにしとく」
「早く俺が死なないかしら、って感じの云い方だな」
 ああ、もう、この先生は本当になんと口が悪いんだろう。
 そんな訳ないのに。見かけによらず不安定なこの先生が何かの拍子に墜落してしまうことを私は何より恐れている。
 私は手紙が折れたりしないよう、手帳に挟んでから丁重に鞄に納めた。それから先生と私の間に国境のごとく立ち塞がっている本の山を、崩落に注意しながらながら脇へと退かしていく。みっつほど切り崩してやっと開通したその道を膝立ちで進む。
 私が背後に立っても助教授は振り返らない。時絵お婆ちゃんへの配慮か、聴き取れないほど小さくかすれた口笛に合わせてその指は淀みなくコンソールの上を動き回る。無防備な背中は今なら私でも簡単に扼殺できるのではないかと馬鹿げた錯覚をさせそうだった。私はその細い首に向かって手を伸ばす。
「……おい、
「なぁに?」
 首に両手を絡ませて、子泣きじじいのように火村先生の背中にべったりと貼り付いた私に先生が苦い声を漏らす。
 小学三年生までの私は朝礼の列で最後尾に居たのだが、小学六年生になった頃には先頭に立つしかないサイズへと変わっていた。現代風に可愛く云えばミニモニ、ずばり云い切ってしまえばドチビで幼児体型の私が全体重をかけて寄りかかったぐらいじゃ火村先生はびくともしないはずだ。けれど口笛が止んだ所為か、それとも何か別の影響を受けてか、縦横無尽に駆けていた指の動きが僅かに鈍ったように見えなくもない。
「あのなあ、俺は一週間後が締め切りなんだ。これがどんなに身を引き裂かれるほど辛いことかお前にも解るだろ? 邪、魔、す、る、な」
「火村先生の脳味噌は相手してくれなくてもいいから。私が今用があるのは火村先生の身体の方だけだから、心はお留守で構わないよ、頑張ってね」
 そう云って私は先生の細い首筋にますます縋りつく。
 締め切り間際の逼迫した精神状態は良く解る。一分一秒が金より重いのも解る。
 でも乙女チックな言葉でこの行動を弁護させてもらえるなら、聴いての通りの無神論者で、輪廻転生はおろか魂なんて云おうものなら鼻で笑って叩き落としそうなこの超リアリストの先生が、私の為にその主義を捻じ曲げるような児戯に加担してくれたことに感動してしまったのだ。そして同時に、マッドサイエンティストどもにこの身体を切り刻まれる前にあと何回その肌に触れることができるのかと想像すると、居ても立ってもいられなくなったのだった。
 シャツの上から首の付け根の辺りにキスすると、助教授は嘆息してカーソルを上書き保存の位置へと移動させた。そして細い首に絡みついていた腕を難なくほどくと、その肩の上を滑らせるようにして私を仰向けに膝の上へと転がしてしまう。別に痛くなんてなかったけど、その拍子に私の脚が掠った所為で後ろの方で山のひとつが雪崩を起こした。
 見上げると火村先生は高尚な難題に魘されてるような苦りきった顔していて、なのにそのくせ私の顎を掴んで親指で下唇をなぞる。
 その表情とは裏腹にその指は本気で迷惑がっているようなものじゃなかったから、私は嬉しくなってついつい、いつもならしないようなはしたない真似をしてしまう。身体を起こすと、丁度胡座をかいていた助教授の膝に自分から納まり、真正面から抱きついてキスをした。
「…後で扱いがぞんざいだったとかむくれるのはなしだぞ」
 濡れた唇を舐めながら助教授が諦めたようにパソコンの電源を落とす。
 ますます嬉しくなって、私はいつもされるのとは逆に若白髪の混じった助教授の黒髪を子供にするみたいに撫で梳いた。
「時には内容より回数のが大事なこともあるよね」
「ああ、なるほどね」
「何が?」
 助教授は意地悪くニヤリと唇を捻じ曲げた。
「今お前が雑誌で連載しているやつはそういうことなんだろ?」
 なんて失礼な。
 あれはまだ二話目で、これから続きが気になって夜も眠れなくなるほど面白くなっていくのだ、と反論しようとしたがそれは叶わなかった。我慢の利かない子供じゃないんだから、人の話を聴かないなんて失礼ではないか。全くもって野蛮人な助教授はあまりキスがお上手じゃない。因みに暗にさっさと済ますと云っていたくせに、根が几帳面なのか、この時の火村先生はいつもと変わらなかった。その所為かどうかは判然としないが、当初の予定にはなかった徹夜を締め切り前日に助教授が強いられることになってしまったことを、ここにこっそりと記しておこう。






 私にはやはり解らなかった。

 ソファに腰掛けた私の右側には、映画化されて一時期必ずといって良いほど本屋に平積みされていた某有名ファンタジー小説の最終巻がある。すっかりブームも去ってしまったのに未だに読み終わっていないのは、どうも自分の首を絞めるのを理解していながら仕事を後回しにしてまで読み耽るほどの魅力を私がこの本から感じられなかったからだ。しかし印税が入った時期とブームが重なっていた為、気が大きくなっていた私はマス・メディアの戦略に易々と引っかかり、一気に全巻大人買いしてしまったのだ。勿体無いので暇になってはこの人誰だっけ? と前巻を参照しながらどうにか最終巻まで漕ぎ着けはしたものの、こんな調子では読了後にあれはどうだったとか誰かと楽しく語り合うのは不可能だろう。面白くないわけでもないのだが、どうにもご縁がなかったようだ。
 その反対の左側には普段手に取ることのない、コレクターズアイテムとして蔵書している私の大好きなエラリー・クィーンの分厚い原書がある。件の手紙はこのハードカバーに大事に挟み込まれていたのだった。
 時が経つのは早いもので、あれから数年が経過していた。ふと思い立って手にとってみたのだが、そこだけ時が止まっているかのように、私の手の中にあるこの手紙は皺ひとつなくあのときの記憶そのままの姿を保っている。
「王の帰還…」
 私にこの手紙のことを思い起こさせたのは、ファンタジー小説のそのタイトルだった。
 火村先生はこの手紙を指して、彼が肉体的な死を迎えたとき、極楽浄土でも煉獄でもどこでもなく、この一枚の紙切れに還ると宣言した。幸いにしてとりあえず昨日までの助教授は奇禍に見舞われることもなく、この手紙は開封を免れている。しかし、だからこの封印された小さな密室に一体どんな彼の言葉が隠されているのかは杳として知れない。
 恥ずかしいことにこの手紙を頂戴したあの日、家に帰るとまず私はどこにこれを仕舞っておくかで真剣に右往左往した挙句、結局は最も尊敬する作家の本という、ある意味私らしいものをその保管場所に選んだ。そうしてそっと本の間に隠して以来、現物をこうして手に取るのは実はこれが初めてなのだが、これを先生から貰った直後は夜眠りにつく前に度々想い出しては、そこに何が綴られているのかを夢想したりした。けれどいくら考えを巡らせても正解だと思えるものに辿り着けなかった。
 そこらにあったA4のコピー用紙の裏に火村先生がペンを走らせたのなどほんの二、三分だ。そして先生はそれを無造作に折りたたむと、やはりそこらにあった封筒に入れて封をした。この一連の作業は私の目の前で行われており、先生がこっそり用意してあったものとすり替えたとかそんなことは断じてなかった。すり替えたとしたって、偶発的な会話の流れを予期できるはずもない先生が、何故そんなものを用意していたのかという新たな問題が発生してくるし、すり替えることで何のメリットがあったのかという必要性の説明をしなくてはならなくなる。
 彼はどのようにして帰還を果たすというのだろう。
 例え便箋に綴られているのが他愛もない言葉遊びだけだとしても、死後紙切れに宿るなど似合わない御伽噺を私の為に口にしてくれたという、その事実だけで十分誇らしいほどの悦びを感じもするし、けれど、もしそれが真実叶うというのなら、復活を果たす為の必要条件がその死だという矛盾に云い難いほどの苦痛を抱きもする。この手紙の内容を知ることは、何を犠牲にしても奪わずにはいられなくさせるような甘美な誘惑でもあったし、業火に焼かれる苦痛を甘受した方がましだと思えるほどの恐怖でもあった。
 私は最早その秘術の秘密を知りたいのか知りたくないのかさえ解らなくなって、重たい本を膝に乗せ、再びそこに手紙を隠した。ハードカバーを元通り書棚の一番下の段へと仕舞いながら、何となく私が次にこの手紙を目にするのは、今度こそ本当に先生がこの世から消えてしまったときのような気がした。
 その恐ろしい予感に私はぶるりと身震いをひとつして、やはり何が書かれているのかは知りたくはないと思った。
 ただその代わりに私は別のことを教えて欲しかった。

 他の誰でもなく、その帰還場所に私を選んだ助教授が、どういう気持ちで封筒に『へ』と、私の名を書き記したのかは知りたいと希った。